寺報 『朱湯山  −抜粋−


  昨年(2000年)まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、本年よりパソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。

2001年 1月 除夜の鐘と修正会 2月 先々代住職 五十回忌供養
3月 春季彼岸 菩提の種を蒔く 3月 信仰の機織(はたお)り
5月 浄土宗 壇信徒 信条 6月 水子地蔵さまの『お室』製作について
7月 おせがきの由来 8月 お盆の話
9月 お彼岸の成り立ち 11月 第八回 おてつぎ奉仕団に参加して
12月 一年を振り返って

2001年1月号  除夜の鐘と修正会
 早いものでもう今年もあとわずかになりました。今年は冬が来ても暖かい日が多かったせいか、平成十三年が近づいた感じがしません。しかし、今年あったたくさんの事を追憶すると、感慨深いものがあります。
 除夜の鐘は長泉寺の年中行事のひとつになりました。たくさんの人が思い思いに、去り行く今年を思い、百八の煩悩をひとつずつ撞(つ)き消して行くことはすばらしい事と思います。十二時で平成十二年も去り行き、平成十三年が幕開けとなり、まずお正月を寿ぐ、修正会(1月1日除夜の鐘終了後のお参り)を皆さんと一緒に寒い中、長泉寺本堂で厳修します。たくさんの方々のご参集をお待ちしています。


2001年2月号 先々代住職 五十回忌供養
 本年は、先々代後藤静達上人の五十回忌に当たります。二月十八日の法要において御回向いたします。
 後藤上人は昭和十二年、江戸時代より続いた長泉寺を野田二組から血の池地獄奥に移転し、仮本堂を再建の最中に亡くなりました。その後は皆様多くの方がご存じの通り、正教上人(父 十三世)が寒行を行い、皆様の浄財を寺の復興に当てました。いかなる因縁か昭和四十三年四月に現在地へ新築移転が出来ました。
 僅か五,六間の本堂を現在のように発展させたのは、父の寒行のおかげ、また、皆様方のご援助の賜と、毎日感謝の気持ちを込めて、一年を通じ毎朝五時半に鐘を突いて皆様方の今日一日の無事を祈っております。
 今後ともよろしくご支援の程お願い申し上げます。 合掌

  
2001年3月号 春季彼岸 菩提の種を蒔(ま)く

    今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな  松尾芭蕉

 私たちは心の中に『仏になる種』を持っていると云われています。芭蕉の句のように私たちの食べるお米でも、大豆でも菜物でも大根でも、種を蒔き芽が出て成長し肥料をやり消毒を行い、色々苦労して初めて立派なものが出来て食卓にあがります。
 仏典に一切衆生悉有仏性という詞があります。皆之悉く佛になる種を持っていると説いています.これを信ずるのが佛道です。だが蒔かない種は芽が出ません。菩提の種も見えません。般若心経に「波羅密多」という詞が沢山出てきます。「波羅」(param)「彼岸」のこと、「密多」(ita)「到る」。この二つを合わせて「到彼岸」。誰でも仏になる種を持っているので彼の岸(仏の国土)へ渡ることが出来ると「信ずる」のが仏の道です。じぶんが菩提の種を蒔く、又彼の岸へ渡るという行動があって初めて「波羅密」になるのです。即ち浄土に生まるということです。
 菩提の種を蒔く具体的な実践行をお釈迦さまは六つの方法で要約されています。即ち六波羅密の教えです。
    一、布施  物も心も施そう
    二、持戒  仏の戒めを保とう
    三、忍辱  どんなことにも耐えよう
    四、精進  あらゆることに努力しよう
    五、禅定  心静かに落ちつこう
    六、智慧  仏の道に目ざめよう
 皆之、この全部を実践修行することは、とうてい無理な相談です。法然上人の時代には一日六萬遍の念仏を称えておられたそうです。そのお念仏の中に六波羅密が含まれているといわれています。私たちも一日百編でもお念仏することによって、菩提の種を蒔きたいものです。


  信仰の機織(はたお)り

教えの縦糸 心に織(お)れば 結ぶご縁は横の糸

 お経といえば仏様の教えのこと、「経」という字を辞書で引くとケイ、キョウとあります。
 経とは「たて糸」という字で布を織る時、縦に引く糸のことです。地球儀で縦の線を経度といいます。横の線を緯度といいます。
このことから縦糸は常にまっすぐに通った道、即ち不変の道理という意味に転じ、教えをあらわす書物を「経〜キョウ」と呼ぶようになったのです。こう考えると仏様の教えは、宇宙に張りめぐらされた真理の縦糸、横糸を織り込むのは今生きている私たちではないかと考えさせられます。
 どんなよい真理でもそれを活用する人間がいなければ、この世にはあらわれません。だから仏さまは、私達に信仰の機織りをしなさいと呼びかけているのではないでしょうか。

2001年5月号 浄土宗 壇信徒 信条
 一、私達は、お釈迦様が本懐の教えとして説かれた
  阿弥陀様のお救いを信じ、心のよりどころとしてお念仏の道を歩み、
  感謝と奉仕につとめましょう。
 二、私達は宗祖法然上人の、み教えをいただいて、
  阿弥陀様のみ名を称え誠実と反省につとめましょう。
 三、私達はお念仏の輪をひろげ、互いに助け合い、
  社会の浄化と平和と福祉につとめましょう。

2001年6月号 水子地蔵さまの『お室』製作について
 前住職(正教上人)の寒行三十五回と壇信徒の皆様の希望もあり、永年の懸案事項となっていました、お地蔵さまの『お室』を製作し、お祭りすることとなりました。
 お地蔵さまは台風時期や三、四月の強風の頃などに、お地蔵さまが倒れて壊れることが幾度とありましたので、強風注意報が発表されるたびに風よけにブロックを置いたりもしましたが十分ではありませんでした。そこで、半永久に的に柱と屋根をステンレスでお室を製作し覆うこととなりました。破風は住職が時間をかけ、本年度中に仕上げるつもりです。
 六月十六日に午後一時より二時間ぐらい、お地蔵さまを下ろしてタワシをかけきれいにしてしてお祭りしたいと思います。都合のつく方は何人でもよいです、多数の御加勢下さればありがたいと思います。

 ○ 服装は汚れてもよいものにしてください。
 ○ 雨天の場合は,翌十七日同時刻


2001年7月号  おせがきの由来
 「おせがき」は「御施餓鬼会」と言われ、各宗派を通じて行われる代表的な仏教行事のひとつです。その由来は、お釈迦様の弟子の一人である、阿難さまが未だ阿羅漢の悟りを開いていない時のこと、一人の恐ろしい餓鬼が現れ、「お前の命はあと三日だ。そのあと恐ろしい餓鬼道に落ちるぞ」とおどされました。恐れおののいた阿難さまは、どうしたらそれを逃れることができるか尋ねたところ、その餓鬼がいうには「仏法僧の三宝を供養し、又無数の餓鬼達に食物を施せ、そうすればお前の寿命を延ばすことができる。」と答え姿を消しました。この餓鬼の名前が,焔口餓鬼といい、口より炎を吹く恐ろしい姿をした餓鬼でした。早速、阿難さまは、お釈迦様の所へ行き、前述の話をしますと、お釈迦様はその供養の方法をお授けになりました。今日各寺で行われている施餓鬼の修法も当時に基づいています。餓鬼だけでなく、みなさんのご先祖や広く無縁の諸精霊を供養し、また皆さん自身の福徳寿命を願うわけです。阿難さまはこのおかげで九十才の寿命を全うしたといわれています。


2001年8月号 お盆の話
 お盆の由来や風習は以前書きましたので、今回は目連尊者の物語を書きましょう。
 お釈迦様には十大弟子と言われる方々がいます。その中の一人に目連尊者と云う方がいます。神通第一と言われ、世の中の何処までも見通す事の出来る力を持った方で、勿論修行を積んで阿羅漢の悟りを開いた方です。
 ある時、目連尊者が禅定に入り瞑想にふけっていました。そのとき、「お母さんは亡くなって今何処にいらっしゃるだろうか?私がお釈迦様の十大弟子の一人となってさぞかし良い所にいらっしゃるだろう」と、自分の神通力で先ず「天上界」をくまなく見渡したが居られない、「人間界」に生まれ変わっているだるうかと見渡したが居られない。では、と「修羅」、「畜生」、「餓鬼」の世界と順に見ますと「餓鬼」の世界で飢えと渇きに苦しむお母さんの姿を見つけました。あたり一面食べることを許されず、飲むことも出来ない者たちの集まりで「水が欲しい」「お腹がすいた」とやせ衰えた者たちの姿は目を覆うばかりです。
 お母さんを見つけた目連尊者は神通力を使い、ご飯を盛った鉢を現しお母さんに差し出しました。「さあこれを食べて下さい。」お母さんは大変喜んでご飯を口にしようとすると、それはたちまち火と化して食べることが出来ません。それではと水を汲んで差しただすと口に持っていく成り又も火と燃えてしまいました。 お母さんは痩せこけ、くぼんだ目から涙を流し嘆き悲しみました。
 目連尊者は「お母さん 私がきっとこの苦しみを救ってあげますから待っててください。」と言うと、お釈迦様を訪ね、この出来事を涙ながらに語りました。お釈迦様がおっしゃるには「目連よ、お前のお母さんは生前欲をむさぼり物を惜しんだ罪により、死後餓鬼道に落ちたのです。あなたの孝順の声が天地をゆるがすとも、あなた一人の力ではお母さんを救うことは出来ません。幸い雨期の修行を終えた僧たちがもうすぐこの地(祇園精舎)に集まります。その僧たちに百味の飯食を供養し、共に祈念すれば、あなたのお母さんも餓鬼道から救われるであろう」と申された。目連尊者はお釈迦様の言葉に従い、沢山の僧を集め供養をしました。その功徳により、目連尊者のお母さんは餓鬼の苦しみから救われ、天上界に生まれ変わることが出来ました。後に、この行事が「盂蘭盆会」と呼ばれるようになりました。ご先祖さまの安らかなることを願って、心をこめてお盆をお迎えしましょう。


2001年9月号 お彼岸の成り立ち
 お彼岸はいつ頃から始まったのか分かりませんが「源氏物語」の「行幸(みゆき)」の巻に「彼岸の初めにて、いとよき日なりにけり」と記され、また「蜻蛉(かげろう)日記」にも彼岸の記述があることから相当昔から、この行事が営まれていたと思われます。
 昭和二十三年、国民の祝日に関する法律が発せられ、春、秋の彼岸のお中日を「春分の日」「秋分の日」と定め、春分の日は「生き物をたたえ自然をいつくしむ日」、秋分の日は「先祖を敬い、亡くなった人をしのぶ日」と定義され今日に至っています。
 昭和二十三年頃は日本も今と違って子供が多く、新円の切替、衣服の配給、食糧の配給、学校でもズックの配給などあらゆる物に制限が掛けられ、台所を預かる主婦は大変だった時代です。配給が不十分のため品質が悪く、配給の糸で服やズックを毎晩のように修理した事を思い出します。
 栄養失調と云う言葉がはやったのもこの頃です。お米は一人者は何とか食べて行かれたようですが、平均六、七人家族では一ヶ月七合に満たない配給です。恐らく、日本人の半数以上がいずれ死ぬかと戦々恐々としたものです。その後米国からの食料援助もあり徐々に改善されました。
 昭和三十二年頃からと思います。所得倍増政策から日本列島改造、工業立国へと転換を遂げ、新幹線が開通し高速道路が出来、東京オリンピックが開催され日本は目を見張る経済成長を成し遂げました。
 お金が入ると人々は浮かれ、一億総タレントと云われるようになり、アイドルスターを誕生させ、Eメールやiモードが何とか云っていますが、さっぱり分からない今日この頃である。
 「物栄えて心が亡ぶ」といわれる今日、毎日のように犯罪の凶悪化や子供のいじめなど、世の中が何処まで落ちていくか日本が心配です。

 「今日彼岸 菩提の種を蒔く日かな」 芭蕉の句です

 お金お金で毎日生活している私たち。 毎日もだけれど老後をもっと心配する人たち。
 家庭の崩壊を心配する人たち
 今日の豊かさと引き替えに忘れてきている最大の幸せとは何かを家族と共に探し、私たちが眠りにつく時「いい人生だった、すばらしい家庭に恵まれ、悔いのない生き方が出来たのは御先祖様のおかげだ、皆のお陰だった、ありがとう。」と言えるようにしたいものです。
 彼岸にお寺とお墓に参り「じいちゃんばあちゃんはお前たちが生まれる時どんなに喜んだことか、大きくなって結婚をどんなに待っていたことか。」と子供や孫たちに話して聞かせたいものです。


2001年11月号 第八回 おてつぎ奉仕団に参加して
 女心と秋の空と云います。十月十二日より十五日迄、総本山知恩院への一日研修の為、登嶺致しました。参加の皆様お疲れさまでした。登嶺の間は晴天に恵まれ、これも佛の御加護かと喜んでいます。
 別府観光港を十二日午後六時に乗船し、十三日午前六時二十分には大阪南港着、チャータしているバスで京都へ向かい、午前八時半には交通渋滞もなく本山に無事到着しました。本山に隣接の和順会館では、丁度、前日の奉仕団の方々と一緒に朝食になり、「食前の言葉」と「食後の言葉」の後に同唱十念を称え朝食を頂きました。とても味のある言葉です。

・食前の言葉
われここに食をうく つつしみて 天地の恵みと人々の労を謝し奉る
 十念  いただきます

・食後の言葉
われ食を終わりて 心豊かに力に満つ おのがつとめに いそしみ 誓ってご恩に報い奉らん
十念  ごちそうさまでした

 例年でしたら各自の荷物を本山まで持っていくのですが、今年は和順会館で預かってもらい助かりました。身軽になって皆さん一緒に女坂をゆっくり上がり、普段でしたら十時から結団式が始まるのですが、今年は鳥取の寺院が遅れ十一時近くに団結式が始まりました。
 今回のおてつぎ奉仕団は長泉寺初め、四ヶ寺で約九十名が参加しました。
 結団式での宣誓の言葉は当寺の木村さんが大役を果たし、第八回になる団旗授与は藤みつ子さんが代表でもらいました。(この団旗は行道では奉仕団員を常に先導する大事な旗です。)団旗授与が終わると全員で写真撮影です。その後小休憩となるのですが、今年五月に改装したトイレに檜の香りが漂っていました。
 先ず、大殿(本堂、本尊法然上人をお祀りしています)へ参拝し、昼食の為、食堂へ。先に書きました「食前の言葉」、「食後の言葉」を斉唱しました。
 午後は、阿弥陀堂にて大きな阿弥陀様を前に木魚念仏を行った後に、阿弥陀礼拝の稽古を行い上音、中温、下音の二十礼拝を五体頭地(頭の額、両手の肘、両足の膝の五ヶ所を地に付ける)の礼拝で立ったり坐ったりして、膝が痛くなりますが、皆頑張りました。
 次に清掃奉仕です。まず、長い石段を上がり御廟(法然上人をお祀りしている所)へ行き、(二年前にこの建物をお掃除したことを思い出します)一枚起請文を皆さんで称え、除夜の鐘で有名な大鐘へ、この大鐘は厚さ十a、一番下の所は三十aもあり、とても大きな物です。この鐘を皆さんで下から持ち上げると「皆さん大金持ちになった」と笑わせていました。いよいよ奉仕の時間です。山門のすぐ下の草取りを一時間ほどしました。この山門も国宝で、天気の良い日には京都市中が一望できるよう、徳川時代は二条城が落ちた場合はこの知恩院が本陣として、物見櫓になるよう設計されたようです。
 その後、和順会館に入り法話を聞いて夕食の後、希望者には萩尾ミドリ主演の映画を見て十時に就寝しました。
 翌朝は五時五十分起床、六時十分和順会館を出発し阿弥陀堂にて早朝のお念仏を称えた後、うぐいす張りの廊下を通り大殿の内陣へ、大殿では朝の勤行を全員で称え、各家の回向が始まると内陣奥の焼香台にて一人一人焼香をし外陣へ下がりました。
 本山布教師のお説教を七時頃まで拝聴し、和順会館へ戻り朝食を済まし、九時より和順会館の三階に於いて解団式が行われました。
 解団式では、当寺奉仕団から感謝状授与(代表に村田貞子さん)、登嶺五回表彰(関ハツエさん)、登嶺七回表彰(仲道昭子さん、近藤鶴子さん、村田貞子さん)の方々の名前が呼ばれ関さんが代表で授与され、表彰された方には記念バッチが授与されました。また参加者全員には記念の線香を頂きました。
 解団式終了の九時半には観光バスで出発。十四日まで京都御所が開放されていたので、一番に見学し、次に御所と隣接している浄土宗本山の一つの清浄華院へお参りしました。(法然上人は後白河高倉、後鳥羽三天皇の戒師となり御授戒された因縁により当院を天皇家より賜る)院内には各寺院子弟の寮が隣接し、副住職もこの寮に一年お世話になりました。
 昼食を取り、新京極の第二十番霊所の誓願寺へ。この寺院は天智天皇の勅願所、奈良に創建されたのです。平安遷都と共に京へ移築され法相宗の僧蔵俊法師法然上人に帰依し浄土宗になり、法然上人中興の祖となる現在は西山深草派の総本山です。
 次いで第二十二番大本山百万遍知恩寺へお参りしました。
長徳山功徳院百万遍知恩寺といい、法然上人を開祖と仰ぎ、昔は賀茂神宮寺、賀茂の河原屋と称しました。
 長泉寺も百万遍の数珠を繰りますが、百萬遍の堂の大きさ、数珠の大きさは群を抜いています。百萬遍の数珠の由来は、第八世善阿上人の時代に京都市中に疫病が流行り、後醍醐天皇の勅命を受け参内し、十七日間百万遍念仏を修しました。その甲斐あって疫病は止み、帝は御感の余り、弘法大師御筆利剱の名号大数珠および百萬遍の号を賜った。
 最後に三十三間堂をお参りしました。無限の慈悲と千体の観音立像は、見るものを引きつけてやみません。また、国宝の雷神と風神像は、鎌倉時代の彫刻でいずれも力強く昔の人々の信仰の深さを感じました。
 京都を少し早めに切り上げ、大阪南港から乗船し翌朝には別府国際観光港に着きました。今年は天気に恵まれ、とてもすばらしい参拝ができました。来年は五月二十四日〜二十七日の三泊四日に「長泉寺おてつぎ奉仕団」としてお参りします多数の参加をお待ちしています。


2001年12月号 一年を振り返って
 一切経の中に「発句経」と云うのがあります。その中の一節に「努め励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境界である。努め励む人々は死ぬことがない。」
 師僧で父正教は病床に伏すまで一日も休むことなく働き続けた人でした。死して今年で八年、今でも父を良く知っている方に出会うと「寒行を、毎年1月6日より一ヶ月間朝六時より、よく三十八年間も続けられたのには頭が下がります」と云われます。私もこの十二月で七十五歳になります。段々と父の生き方に似てくるように思います。
 毎日午前中で寺役(お参り)が終わるときは、長泉寺墓地や霊園の草取りか、裏の畑仕事を午後四時過ぎまでする事にしています。私は老後とか、人生の最後などの詞は全く好きではありません、動けるまで動く、働けるまで働くのが好きです。私の母は十一月で九十五歳になりましたが、年老いたといえども新聞を読み、チラシに目を通し、安いものに○印を付けて乳母車を押して買い物に出かけます。買い物が無いときは眼科や歯科医院に行っているようです。
 母はよく云います「頭がぼけないように、歩いて足を強くし、寝込まないように、皆の世話になるから」と、母は信念の人と思います。父も「今朝も生きていて良かった、若い者に負けずに働くのだ」と常に言っていましたが、私も両親に見習いたいと思います。今年は5月に仏間の北側に六畳の部屋を作り「夏の間」と命名しました。また、七月には強風でお地蔵さまが倒れて壊れるので雨風除け用にとステンレス製の御室が完成しました。



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