長泉寺の由来について
 当山は寛徳2年(1044年)、第69代後朱雀院の皇太子である”親仁親王(チカヒトシンノウ)”が重病にかかり、天下の名医”耆婆扁鵲(ギバヘンジャク)”が治療を施したがその甲斐もなく見えた。後朱雀院は大変悲しまれ、民も慟哭し、なんとしても御命を留めようと神仏に祈っていた、ある夜のこと皇太子の夢に高僧が現れ『皇太子の病は宿業の致すところである。豊後の国、かまどの庄に霊泉があり清らかなこと類を見ない。この霊泉につかり我が名を呼びなさい、その悩みはたちどころに消えるであろう』とおっしゃった。

 親仁親王は大変不思議に思ったが、すぐに都から船で旅立たれ、現在の大分県別府市血の池地獄あたりを経てさらに山の方へ進まれ、川に温泉が湧き出ている所で、側にある岩石を枕に柴を敷き湯に入られた。
 不思議なことに7日7晩毎日湯に入られると、病は洗うがごとく治られ、皇太子は大変感謝し涙にむせびなされた。程なく御心を後に残され京都にお帰りになった後、御位につかれ、第70代後冷泉天皇になられた。
 即位の後、帝の勅願所として宇留島俊久、藤原貞久の両名に命じ百済様式の七堂伽藍を柴石一本杉の地所に建立し、血の池の因に依りて、朱湯山と称し、時の年号を意味する寛徳院と号した。また、温泉が常に溢れ絶えることがなかったので長泉寺と名付けた。
長泉寺の御本尊として、仁聞により薬師如来像が奉納されました。この薬師様は乳薬師とも称せられ、御利益があると遠近から参詣があります。
  時代がさがり、天正年間大友の乱に伽藍宝物を全焼の中、薬師如来の尊像のみは不思議や火災を免れ、里人が姫山の地にささやか成る草堂を建立しました。
 その後、貞亨の頃に野田八十浪(のだやそなみ)地区の長者が大樹に居た身ごもった猿を射ろうしした時、猿は腹をさすり助けを乞いたが、長者あい受け入れなかった。
   その夜、長者の夢枕に僧侶が立ち『我は姫山に住む薬師なり 汝慈悲の心なし、汝の一家猿のたたりにて滅亡すべし、早々菩提心を起こさばこの難逃れ得ん』と、目が覚めた長者は、八十浪一帯を寄進し薬師如来堂を建立した。
 その後、明治維新の廃佛棄却により破損甚だしく、残材をもって明治42年八十浪に仮本堂を柴石に説教所を設営の後、血の池地獄御手洗の史跡に移転、昭和43年4月に現在の地に至る。

春の長泉寺風景

長泉寺内陣
「別府温泉史」の中にも当寺院が紹介されています。
         発刊1963年2月1日
            別府市観光協会編著
 大分県立歴史博物館で平成11年度特別展として、「湯の歴史と文化・湯浴み」が10月8日より11月7日まで開催され、長泉寺本尊 薬師如来を出品し、檀家の方々と博物館へ行ってみて、温泉と当寺院の関わりを再認識しました。



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