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三男である私(芹川憲夫)の父(芹川正教(長泉寺中興上人.極楽寺開祖上人))
への思い出を残すことは、わたしの懸案であった。
父がこの世に生きた証しを、少しでも記録に残したかった。こんなことでしか、
わたしには父に報いるてだてを持ち合わせていないからである。
父は老いた。
齢九十を越え、刻まれたしわと滲み出たしみは、
四苦八苦の人生の黙示録であり、誇りの象徴である。
それにしても、この長寿はどうしたことか。
人類の悠久の歴史の中では、瞬時の人生でしかなかろうが
しかしこの年月は、真摯に生きた名もない男の、驚きの歴史の堆積である。
父は母と人生を結んでより、六十余年が過ぎ
別府へ居を構えてより六十年の歳月が流れた。
清貧の中で托鉢があった。
借財の中で子どもたちに教育をあたえた。
忍従の中で戦争を体験した。
それらはすべて古い時代の価値観に生きた男の美学であった。
それらは厳しい時代に歴史を積み上げた自慢の人生であった。
それらは論理より行動を優先させた不言実行の人生であつた。
父はまさに明治から平成に生きたロマンティストであった。
老境を迎え、余命いくばくもない父のために、『月影抄』を著すこととした。
著名は、宗祖 法然上人の宗歌である
月影の 至らぬ里は なけれども
挑むる人の 心にぞすむ
- からいただいた。
この歌は、父の宗教活動の神髄であり、よりどころであった。
そして今、父は四大不調となり、夢幻泡影の命をさらしている。
日を追うにつれて、別れの影が深まっていく。
出版に気を急いだが、わたしには父の全てを語る知恵も表現力もなく、その上時間までもない。
ただ、心だけが先を急いでいる。あわただしい中での作業であった。
表現がわたしの視点からの描写であり、自己欺瞞のそしりをまのがれず、
勘違いや虚飾があったかもしれず、心もとないかぎりであった。
その上、表現が稚拙で、衆目にさらすのは気淋ずかしいことでもある。
しかし、これが父の歴史の証言となり、その碑となることを祈りながら、
あえてわたしはここに拙文を上梓することとした。
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