寺報 『朱湯山』 −抜粋−
2000年まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、パソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。
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平成18年1月 梵語・パーリ語とサンスクリット語
先月号に書いたように、仏陀は種々なる国を布教し、色々な言語によって説教しましたが、仏陀滅後六百年頃、出世したカニシカ王の統治下に行われた、五百名の僧侶を持ってマカダ国の王舎城で十二年の長年月を費やして、第四結集を行い、その経・律・論の大成をみるに至ったのですが、この頃より仏陀の言語を書によって残した方が布教にも全く間違いが無かろうかと考えるようになりました。教典として実際に記録されるようになっては、主に俗語の系統であるパーリ語と、雅語の系統の梵語二種で表現されるようになりました。そもそも、パーリ語とはpariの音表で聖典即ち神聖なる典籍の一章を表す語で、聖典語という意味です。ブラークリット即ち、「自然のまま」という意味で少しも洗練されていない俗語を指しますので、方言俗語をさすものと思われます。
梵語とはサンスクリット語(samskrit)の事で、梵とは印度の造物神といわれる梵天を指し、その梵天の創造にかかる語、とのことで、非常に優秀なことを意味しています。元来、梵語はアールヤ種族の使用した言葉であり、この種族ははるかなる太古中央アジア地方に居住していたが、紀元前三,四千年頃、日本国ができる五,六千年位前に東西に分かれて移動を始めました。西の方に向かった一団は欧州に入り、その土地の文化を建設する先駆者となり、また、東に向かった一団はペルシャや印度に入って、その土地の文明を形成する素地を作った。大体三千五百年位前に出来た宗教「リグベーダ」の中にあるベーダ語は当時の用語とされています。それより千年以上経って言語学者パーニという者が出て、古代文法を整理し、「ソタラ」という文法書を作りました。それによって作られたものがサンスクリット語で、「完成された語」または「洗練されたる語」という意味で、立派に出来上がった雅語を表しています。そのためアール種族でも、教養の富んだ上流社会にのみ用いられたらしく、純然たるサンスクリット語が出来上がった。
一方洗練されていない素朴な俗語はプラークリットです。故にサンスクリットに対して、一般民衆に用いられるようになりました。
では、教典がパーリ語や梵語で書かれるようになったのはいつ頃かというと、文献では割合明確に記されています。阿育王は先に記しましたように、即位十八年に目?連子(モッケンレンシ)帝須に命じて第三回結集を行わせたが、その事業が終わるや王は更に多くの布教使を四方に派遣して大いに正法の布教に力を入れたので、世界的な発展をした。その時王子のマゼンダを師匠帝須の命によって、南方セイロンに派遣されることになり、多くの比丘達と共に渡島しました。これが南方仏教の起こった始まりとします。
平成18年2月 巴利語(パーリー語)教典の期限と仏教の伝搬
阿育(アショカ)王の王子マヒンダというのが師僧帝須の命によってセイロン島へ多くの比丘と派遣されたのは先月号でお伝えしましたが、この時も未だ華氏城結集によって成る三蔵及び注釈の類は、やはり口伝でした。むつかしかったので土地の語、即ちシンハリースというのでした。その後百六十年程たって、紀元一世紀の末ワツタガーマニ王の時、全島五百の長老をアヌラダという大寺に集め、そこで教典の書写を行ったとあります。思うに口伝では年月を経るにつれまた暗誦では各種の異議異説が出たためと思われます。これが現存する巴利語教典の起源です。その後、五百余年たって紀元四百三十二年に仏音(ブツトン)という学者が印度よりセイロン島へ渡り、前のシンタリーニで出来ている三蔵の外注釈迄も巴利語で出来、完成したのは、仏音の功績というべきでしょう。故に彼の事を弥勒の出現と仰いでいるということです。
それでは仏教の性質を見るに、印度より北へネパール、中央アジア、チベット、中国、安南、蒙古、満州、朝鮮、日本と大乗仏教が広がったのに対し、小乗仏教は南方、セイロン、ビルマ、シャム、カンボジア等に広がりました。唯し大乗仏教が北方へ広がる時、小乗教典も少しは入っています。
例えばかの仏音が律蔵を注釈した、「サマンタバーデイカー」という書物などは現在巴利語教典の中に在しています。これは中国に於いて「善見律毘婆沙」の名を以て大蔵経中に収められているようであります。ここで東方仏教という詞があります。これは特に我が国の仏教を指すのですが、我が国が世界唯一の仏教即ち仏教の神髄たる、大乗仏教国であることは間違いありません。然し肝心なのは、仏教徒自身それについて衷心より責任、自覚を喚起し、大乗精神の発揚に努めなければ宝の持ち腐れ、否小乗仏教徒より笑われるようです。仏典の北方へは中国へ漢訳、西蔵訳、蒙古訳等、南方へはセイロン、ビルマ、シャム等蔵経を「三蔵」と呼ばれていました。
おもしろいのは北方仏教は折本と綴本両種類があったのが皆紙に書いてあったが、原本はセイロン文字であれ、ビルマ、ネパール文字等たいていは紙に書いてなくて貝葉というものに記されていました。
詳しくいえば貝多羅葉(バイタラヨウ)といいますが、バイタラとは梵語のパツトラの音表で、樹の葉のことで古代印度では一般に紙の代わりに用いていました。また、チベット訳、蒙古訳などでは貝に書くのではなくて樺の皮に書いたのを見受けるとのことです。現在、梵語本、巴利本、大蔵教典といわれる原本がほとんど散逸している現在、最も多数現存する簡約教典を研究するのが当を得ていると思います。
次号は漢訳教典の歴史をたどりその内容を順次調べて見たいと思います。
平成18年3月 漢訳教典 仏滅後五百四十九年、紀元六十四年の事、後漢第二世の光明帝はある日寝台に寄りかかりながら、未ださめやらぬ夢を追っていました。それは帝が今し方世にも不思議な夢を見られたからでした。それは、帝が御殿の縁側にたたずんでいる時、いずこより飛んできたのか。この世の物とは思われない様なものが現れた。姿端麗にして、全身が金色に輝き頭の後ろには、光輪が燦然と輝き庭を歩く気高い姿は尋常一様のものとは思われません、何人か尋ねようとして姿がふっと消えたので、夢が途切れてしまい、何とかしてどんな方か、何処に居られるのか、自分で解決出来ないので、直ちに臣下を呼んで「お前達、この夢をなんと見るか、吉か凶と見るか」と問うと傅毅(フギ)と言う者が進み出て申すには「かねてより聞いていますに西方に仏という優れた神がいます。陛下の今ごらんになったのは、その仏ではありませんか。そうだとすると、これはこの上なき吉兆と拝察致します。早速その神をお求めになっては如何でしょうか。」と申しました。
そこで、帝は使者をして仏という神を求めることになりました。
永平十年(七十六年)中郎蔡?(サイイン)博士秦景等十八名は勅を受けて西域に仏教を求めて旅立ちました。たまたま、一行の者が大月支国に行きますと、迦葉摩騰(カショウマトウ)、竺法欄(ジクホウラン)といゅう二人の沙門(シャモン(お坊さん))に出会い、本意を告げて共に東土漢国へ来て頂くよう懇請しました。そこで沙門摩騰は仏像、教典などを白馬に積んで使者と共に洛陽に 法欄も後より来ましたので皇帝は大いに喜ばれ、二僧の為に白馬寺を造り、仏像を祭り、その教典の翻訳を命ぜられました。
白馬寺とは白馬に仏像、教典を乗せて運んだのでこの名に成りました。これが志那に仏教の公伝した最初だといわれています。
これより直ちに翻訳が開始されたものに、「四十二章経」があり現存しているといいます。これは日常道徳を指し示す一種の教訓書です。これが、仏教書の漢訳の起源とされ、それにより、三国、晋、南北朝、隋、唐、五代、北宋、南宋、元で教典の翻訳が行われました。
元の初期までおよそ千三百年間継続され、その間、翻訳者の教えが百九十四名、訳された教典の数が千四百四十部、五千五百八十六巻と多数にのぼったとのことです。
これら多数の訳者の中で特に有名なのが羅什(ラジュウ)、眞諦(シンタイ)、玄奘(ゲンジョウ)、不空の四人で翻訳の四大家又は、四天王といわれています。何故そう呼ばれているかというと、羅什は七十四部、三百八十四巻、眞諦は六十四部、二百七十八巻、玄奘は七十六部、千三百四十七巻、不空は百十部、百四十三巻を出し、志那仏教は、これら四人の努力によっていかに進歩したか知れません。
特に玄奘は従来の翻訳の性質を一変させ訳経を新しく変えた人です。彼は、唐の洛陽の生れですが、かねがね訳経に疑いを持っていたので、自らインドに渡りインド語を勉強し教典の訳したいと思っていたところ、二十八歳の時に意を決して長安の都を逃れインドに向かい、それより十七年という長い間、西域インドの学匠を尋ね、豊富な学識と膨大な教典を携えて帰朝したのです。
平成18年 4月 梵語の翻訳
中国の南北朝の後隋唐の時代になりますと一定の「翻経院」というようなものが出来て、そこで翻訳が行われるようになりました。かの玄奘三蔵の為に設けられた長安の都の慈恩寺の翻訳院の如きは、規模広大で実に善を極め美を尽くしたものだったということです。
訳すということは、直訳、意訳、次にどうしても訳せないものもあります。そこで玄奘は五種不翻を説えました。原意を適当に言い当て表せない場合を五通り数え次のように、
一、インドにあって支那に無いものの名前、
例えばジャンブ(jambu)という木は中国に無く原語の読みのままに閻浮(エンブ)とした。日本でも外国より伝わったランプの如きもそのまま使った。
二、一つの語でも多くの意義が含まれているもの、
例えばブハガヴァットと言う語は自在、端厳、名称、吉祥、尊貴、熾盛(シキジョウ)と六通りの意があり、一つに訳すことが出来ないので、原語のまま婆伽婆(バカバ)と記した。バカバとは仏陀の徳相をを表した語で仏陀は全ての煩悩の繋縛(ケバク)を脱して自在を得ているというので自在といい、霊智の聖火が盛んにもえているというので熾盛といい、また微妙の相好で荘厳されているというので端厳(タンゴン)といい、又功徳円満で名実相かなっているので名称といい、また、一切世間より尊崇供養されるというので吉祥といい、また、常に一切有情(ウジョウ)を利益したので尊貴といいます。ですからジャニブ即ち閻浮(エンブ)は訳すわけにはいけません。だから原語のままに訳す方が良いのです。
三、秘密のもの
例えば、陀羅尼(ダラニ)の様なもので「ノーマクサラバー タタギャターバローキテイオン サンバラー・・・・」という風に原語のままで表されているもの、その意味が余りにも幽玄すぎて、真意が伝わりにくいものを、そのままに読む。
四、古くからの慣習に従うもの
例えば、「アヌタラ、サムヤク、サンボード」は、原語のまま「阿?多羅三猊三菩提」と音表を以て現したから今以てその通りにしています。あえて訳せば「無上正等正覚」となると思います。
五、訳せば全然その価値を失うようなもの
プラジューニャーという語は智慧ということですが、普通の知識を指すのではなくて真理を證得する無漏(ムロ)の霊智を指すので、もし智慧と訳せば、一般の有漏(ウロ)の智慧に成り下る恐れがあるため、般若と音表するのに止めているのがそれです。
これについて面白い話が伝わっています。かつてある人が藤原定家の「小倉百人一首」を漢詩に訳そうと企て、先ず天智天皇の「秋の田の・・・」の歌より始め、二番目の持統天皇まで無事に訳せましたが、三番目柿本人麿に至ってぐっと行き詰まりました、何故かというと、その歌は「あしびきの・・・」は山の枕詞です。次に山鳥と続き、次に山鳥の「尾のくだりを」「夜のながながし夜」の長いことを形容している詞を出すために、直接関係のない事を書いているのですが、この歌の意味は、長い長い夜を唯一人語る相手もなく、淋しく寝ねばならぬ味気ないやるせない恋心を読んだ歌です。だから漢詩には訳しようがないので仕方なく「永夜独寝」と訳したということです。これでは恋心が全然出ていないのです。
以上五種不翻ですが、また訳しても利益に成らぬというような言葉が、わざと訳さずに置かれているという例がありますが次号といたします。
平成18年 5月 梵語の翻訳 その二
五種不翻の外にわざと訳さないものがあります。その中で「華厳経}の終わりの方の「入法界品」に善財童子と呼ばれる青年が求道の為の善知識と仰ぐ五十三人を訪問するくだりがあり、彼が第二十六番目の善知識と仰ぐ「バスミツ」という婦人を訪れた所、その婦人が、その方が彼に告げて平素いだいている十願というものを示し、その第九を「若し衆生あって、戒を『阿梨宣』せん者は摂一切衆生三昧を得んといい、第十を若し衆生あって、戒を『阿衆鞴』せん者は、諸功徳密蔵三昧を得ん」といいます。ところがこの 阿梨宣及び阿衆鞴というのは、釈訳ではなくて、梵語の音表にすぎず、アリギとあアリンギタ即ち抱擁、アシュビとは接吻を意味します。言い換えればじぶんと情を交えた者はそれを手がかりに、仏縁を結び悟りの世界へ導きたいということで、多少のの事は手段を選ばず、善巧方便して化導しようということです。その主旨が如何に尊くとも、余りに露骨な表現の為、風儀の上からも、わざと訳さなかったのです。
この教典の訳者の覚賢という人は当時白蓮社という念仏を修する道心堅固な集団の一人でしたので、特に訳に当たっては極度につつしみ深くしたのではないだろうかと思われます。中国の当時は西晋東晋、南北朝、隋、唐と続く東晋の時代で、翻訳の盛んな時代と思われます。
かく時代は、教典の解釈、又は論註等、増加してきましたので聖典として採択する一定の標準を設けました。その標準とは帝王の勅許により決められました。この勅許を経た聖典の集成を「蔵経」と名付けました。蔵とは印度における経、律、論のことであり、その中お経が最も多かったので大蔵経又は一切経と呼ばれることになりました。
平成18年 6月 蜀版の一切経
教典の種類が多くなり、一切経は三千巻とも五千巻とも言われるようになり、整理が行われるように成ると、手書きの物から印刻事業へと変わってきました。
では、いつ頃かというに、一般には紀元十世紀の後半即ち北宋の太祖の時代であると言われています。以前の隋、唐の時代に既に教典の一部が印刻されたと思われますが、前代、周の時代に廃仏が行われ、仏教が衰退したが、人心をつかむには仏教の興隆にしかずと、仏典の印刻という空前の大事業を企画されたのです。その場は、四川省の成都で行われ、次代太宗帝が事業の継承をして遂に着手以来十二年の歳月を経て太平興国八年に完成しました。この版木は刻印の場所に従い、世に「蜀版」と言われています。
さて、一口に経と言っても二千八百巻と云う多きにわたり、その内容は広汎多岐に、とても簡単に片付けられる物ではありません。教典は、何も悉く知り尽くさねばならぬものではないと思います。お釈迦さまは宗教哲学の体系を立てるために一般民衆に話したのではありません。事にふれ、事に応じて話されているので、一話一説が時に応じて必要と見るやぼつぼつ話しているのです。それだけで十分我々の教訓となっているのです。我々は、何を仏陀に訴えようとするのか。云うまでもなく罪悪と苦悩とに汚れたこの身を浄化して円満なる人格の完成による安心立命を願う為です。その願いを叶えたいと精進努力する事こそ当面の急務であれ、それ以外に何等考えることは無いのです。そのためには、仏典を全部知らねば十分得心できないと考えるのは知識の要求に止まるのです。釈尊は既にこういう人のいるであろう事を見抜かれ教訓を垂れています。「百喩経」の中の例話は次のようです。
昔あるところに、愚かしい人がいた。大変喉が渇いたので、あちこち探し廻っている間にシンド河に着いた。ところがどうした訳か、川面を眺めるだけで一向に水を飲もうとしなかった。そこで連れの人が、「どうして水を飲まないのか」と尋ねた所、答えて云うには「もしすっかり飲み干すことが出来るなら、もとより急いだ飲むのだが、これでは水量が多すぎて、とても飲み干すことが出来ないので困っている。」と、これを聞いた連れの人は、その馬鹿さ加減にあきれて大笑いしたと、世人が仏教に対し全部知り尽くすことが出来ねば、信と業が出来ないと云うのは間違った考えと云うものです。
平成18年7月 一切経
先月号で申し上げたように、一切経は、二千巻とも五千巻とも言われています。では、この経を三つに分類してはどうでしょうか?
一、羅漢系の教典とは「阿含経(あごんぎょう)」をはじめ本生、本業、比喩、因縁などの諸種の教典で、終極の理想を涅槃寂静と置き、羅漢とは阿羅漢のことで梵語のアルハーンの音表、訳して不生といい、全ての煩悩を断じ処して再び迷いのこの世界に生を受けぬ事を理想とする人の事を示します。
二、菩提系の教典とは従来大乗教典と称せられていたもののうち、終極の理想を菩提涅槃に置く菩薩系の教典を示します。菩薩とは梵語のボーディサッタの音表異称で訳して覚有情といい、自利利他即ち、自分も他人も共に仏果を得る即ちその境地に至ることを理想として進む人たちを指します。その為には、あくまで現世浄化にいそしむものです。教典としては、「若般」「華厳」「法華」「涅槃」などはいずれも、方広教典に入る物です。
三、往生系の教典は殆ど大乗教典と称せられており、その中で、究極の理想を特に往生浄土というところに置く教典です。最も宗教的色彩に富んだもので「無量寿」「弥勒」などの浄土典は皆、これに収められています。
また、羅漢系の教典の主体をなすものに四部の「阿含経」があります。阿含とは梵語のアーガマーの音表で教または伝と訳します。もともと仏陀が説き示したものであり聖者が相続したものであるから、仏陀の教えを全て集めたものという意味です。故に小乗だけでなく大乗にも共通しているものが沢山あのます。この経には「長阿含」「中阿含」「雑阿含」「増阿含」の四部があるので「四阿含経」といわれ、いずれも一経にとどまらず沢山の小経の集まりです。「長阿含経」は三十の小経「中阿含経」、二百二十二の小経より成ります。「雑一阿含経」は千三百六十二の小経より成つていますので大乗教典のように一つの経文を称えているのとは、その性質が異なっています。「増一阿含経」には法、財の二施(二法)仏、法僧の三宝とか。苦、集、滅、道の四諦とか(四法)というような短編が収められています。
また、小乗といっても仏陀の経法の根源をなす四諦、八諦、八正道、十二因縁などの教理をもって一貫しています。来月号は、仏陀の根本思想について述べましょう。
平成18年8月 四諦 先月号に続いて、これより仏教大学で習う大事な所になります。四諦とは、迷界、悟界をよく観察して名付けた苦諦,集諦、滅諦、道諦の事で、諦とは、真実で少しも誤り無き真理ということで、仏陀の教えの価値を示しています。即ちこの法門は実に正当な道理であるということです。
この法門は仏陀が中インドの鹿野園(ロクヤオン)に於いて最初に説法された時の教えで、仏伝によると、仏陀は、中インドのガヤ近くのピツパラ樹の下で無上の大覚を成就すると、まず最初に説法して教化されたのが、同族の五賢衆といわれ方に対してでした。この五人はもともとお釈迦様の大臣でした。父王の命令により王子を城に連れ戻す為に追ってきたのですが、どうしても城に戻らぬ為、大臣達は王子と共に婆羅門の修行をしていたのです。そこで仏陀は鹿野園で五人に説法されたのが、この四諦の法門でした。仏陀の説法のことを転法輪といいます。法の輪を転がして罪悪というでこぼこの道を平らにすると云うので転法輪といい、最初に五人に説法したので初転法輪といいます。この時の四諦の法門は実に仏教を一貫する中心思想となっています。
先ず若集の二諦は迷界の因縁を表したもので、滅道の二諦は悟界の因縁をあらわしたものです。
第一の苦諦とは私たちの現実の境界を道耐した言葉で、即ちこの生きている世界が苦であるということです。私たちの人生を眺めますに一切の事物事象何一つ苦でない物はありません。たまたま楽だと思うようなものも、それは一時的な表面上だけで実際は楽ではなく苦に陥ってしまうのです。その苦について色々ありますが、大体四種または、八種あるといいます。いわゆる四苦八苦と云うのがそれで、四苦とは生、老、病、死の四つで、八苦とは愛別離苦、怨憎会苦(オンゾウエク)、求不得苦(グフトック)、総五種薀苦(ソウゴシュウンク)を言います。
先ず生苦とは、生まれたことの苦しみ、即ちこの世に生を受けたことが苦だというのです。現に私たちが受けている種々の苦は、生まれなかったら受けずに済んだと言うのです。生苦があるから老いる苦しみがあり、病む苦しみがあり、死の苦しみがあります。
次に愛別離苦とは愛する父、母、兄弟、恋人、友人、知人すべてであり決して異性問題ではありません。一方では好ましからぬ人と出会ったり一緒に暮らしたりしなければ成りません。そんな苦しみが怨憎会苦といいます。戦前は娘が嫁に行くと、その家の家風に合わせなければならぬ為、嫁は嫁ぎ先の姑に気兼ねし、いじめられ苦労したものだが、戦後は反対に姑は嫁にいじめられる家が多くなった。人生とは実に種々な苦に満ちあふれている。
次に求不得苦とは希望の実現されない悩み、たとえば、お金が欲しい、土地が欲しい、良い学校に入って良い職にに付きたい。結婚したいが良い人がいない。子供が欲しいが出来ない。金が出来ると地位を求めて汲汲とすることです。
次に総五取薀苦とは、これまでの色々な苦は私たち個体を組成している五種の要素で色、を憂うとあるが如く、子供が出来て子供を憂い、犬、猫飼えばまた、それを、憂うように人生常に休み無く苦しんでいるのです。
ところで、こう申すと仏陀の教えは人とは何だ厭世思想のようで甚だ面白くない考えと思われるが、この続きは次号とします。
平成18年 9月 集諦
四苦、八苦、四諦、八正道など、仏教の教えは人生をはかなんだ厭世思想のようですが、殊更人生の苦の一面のみを指摘されたのではなく、人生のありのままの相(姿)如実相をおっしゃったのです。
世界に目をやって見てください。イスラエルとレバノンの戦は、近々日本、中国、韓国、北朝鮮等との争いにならないと良いのですが、夕方のテレビを見ていると、どのチャンネルでも料理番組、歌か踊りが大半を占めています。
教養番組の視聴率のいかに低いことか、ただ浮世の快楽にあこがれ、楽少なくして苦多きことの不愍なるをあわれみ、苦悩の所以を道確して、それに目覚め、速やかにそれより解脱させようと図られたのが即ち仏説の起る根本となったのです。
「中阿含経」の中に自分の太子時代の生活が衣食住のすべてに贅を尽くし何不自由なく享楽の世界であったが、それは決して真の幸福でないと気づき、断然それを捨ててひたすら求道の旅に登ったことを書いています。
我々の世界が無常転変のもので、決して常住不変のものでなく、どうしても苦悩の継続を免れることが出来ないからです。そこで仏陀は一切衆生をして、よく人生を正観し、解脱の理想を憧れとして、四諦を説き第一ら苦諦を置いたのです。
次に第二に集諦(じゅうたい)とは、集は結果を招き集の原因と言うことで苦諦を生ぜる原因を指しています。よって、種々の苦相は何によって起こったのかとなるが、過去に於いて作った種々の悪業と、その業を起こさせる妄想、惑(かく)とによって招いたと言うことです。
業とは何であるかというと、善、悪の行為を言います。我々は身、口、意の三種の行為を重ねて生活をしています。心には、色々なことを思い口と身体は、言葉となり所作となって現れます。一般に道徳的善行と云っても、最終的に何か名誉の為に、又、職業に有利になるとか、考えている方も多くいます。我々の行為はたとえ道徳的に善行と認められても宗教的には決して善行と許されない物も多々あり、この様に私たちの行為が悪業ばかりで、少しも善行の無いのは、我々の汚れた心が行為の基となっいてるからで、この汚れた心を惑(わく)と言います。
惑とは相手の事柄に惑って正しい見解が出来ないとの意味です。この惑は煩悩とも言います。つまり汚れた心を指すのです。その汚れた心に種々あり、惜しい、欲しい、憎い、可愛い、色々な感情です。この様色々な感情の中でも欲貪(よくとん)、この中で渇愛が最も力強く働きます。この様な色々な感情のために我々の身心を不断に動き回るので、それを煩悩と言います。
平成18年10月 惑・業・苦 この惑(ワク)と業(ゴウ)と苦(ク)との三つは、因果が限りなく循環するので、惑がある為に業をおこし、業がある為に苦を感じ、その苦によって更に又惑を作り、惑より業をおこし、業より苦を感ずるといった風に互いに関連するのです。この惑と業と苦を三道といい、道とは三者互いに関係し、六道即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅人間、天上を流転し続くる有様を六道輪廻といい、迷いの世界で惑,即ち煩悩のない世界を悟りの世界、」これを無漏(ムロ)といいます。漏とは煩悩の異名で我々が身体の諸器官より涙や唾や鼻など、不浄を漏らすように、三業をとおして汚れた心を漏らすと言うことで、煩悩のことを漏(ロ)といい、その漏のある境界だから有漏(ウロ)といいます。この人生は有漏のよごれた色で彩られた葛藤の世界に他ならないのです。
このように苦の原因は業であり、業の原因は惑にあります。そこで苦を免れようとするには業を起こさぬようにせねばならず、業おこらねば苦はなくなります。こうしてこの三つのものがなくなるわけで、そうした境界を第三に滅締といいます。この滅締は即ち、涅槃(ネハン)のことでこれは即ち迷界の苦悩のしがらみを解脱した理想の境地に他ならぬのであります。何故ならば行者が修道する要はひとえにこの涅槃の獲得ということを目的と一生懸命修行するのですから。
涅槃、即ちニルヴァーナとは物の滅した状態ですから滅度とか円寂とかに訳されています。滅度とは惑業を滅却し、迷界を超えた彼岸の境地との意で、円寂(エンジャク)とは煩悩のわずらわしさ全く取り除き円満寂静(ジャクジョウ)の境地と言うことで、やはり彼岸の理想をあらわしています。その理想の境地とは、@現世を逃避した空寂のであるとするのが、小乗仏教徒の考えで、A決して現世を逃避するのではなく、この現世の苦境を超越することによって建設する無常の楽土でなければならぬとするのが、大乗仏教の考えです。
柿のおいしい季節となりましたが、渋柿も舌をもとかすようなおいしい柿になるのは、「渋柿の渋がそのまま甘みかな」と歌にあるように決して支部を捨て去って別の甘みを得るのではなく、渋のそのまま甘くなるのが、現世を否定するのではなく現世を聖化するところに理想の天地を見いだそうとするのです。
このような涅槃の境地に至るには如何なる方法を持ってすればよいか、この方法を教えたのが第四の道締です。道とは滅締に至る方法という意味です。この道締と左記の滅締とも因果応報を有し、滅締は果、道締は因でこれは悟りの因果関係にあります。道締即ち涅槃に至る方法は、八種数えられていて、それを八正道と呼んでいます。正道は右にも左にも片寄らぬ中正ということです。
平成18年11月 八正道
そもそも釈尊時代の印度の宗教にはいろいろなものがありました。何等いわれのない方法で悟界に至る道であると考えてられていました。例えば苦行外道の一派の如きは、苦行が解脱即ち悟りを開く最上の方法と考え、一例として頭髪を全部抜き取り、身体をかき破り、見ると忍びないような苦行を続けていました。釈尊も修道の過程で教典に「勤苦六年」と伝えられていますので、それに誓い苦行をしていたのではないでしょうか。又、順世外道といわれる一派の如きは快楽を持って解脱の最上の方法と考えて実行していました。しかし、釈尊はこれらの方法では真に解脱は出来ず、その中道であると確信して八正道だと考えました。そこで「転法輪経」の中は、「およそこの世間に於いて、ひたすら快楽にのみ耽溺するのは、凡夫下劣の所作であって決して賞むべきではない、そうかといっていたずらに苦行にのみ没頭するのも甚だ無意義の事である。そこでこの苦快の二辺を離れた中道こそは、実に寂静涅槃に至る大道というべきであると説かれている。ここで注意せねばならないのは、このように四諦は迷界と悟界との因果を開示された教えでありますが、釈尊がお説きになった本意は論理的に知らしめようと考えたのではなく、実践させようと思ったからです。それについてこういう話が伝えられています。唐の時代に学者で道林という方がいました。杭州西湖付近の山寺で大木の枝に鳥の巣のように住んでいたので、付近の人々は鳥(ちょうか)禪師と呼んでいました。たまたま詩人で名高い白楽天が杭州の知事となって赴任してきて、禪師の名声を聞き訪ねていくと、木の上に居るので、樹上の禪師に向かって「仏教とは何か」と問うたところ、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏経」と答えました。これは「七仏通誡偈」といって、過去の七仏が何れも仏教の根本精神を示された肝要な聖句で、私も五十才代、別府駐屯の自衛隊が今の市役所の上に講堂があった時、そこで二時間「仏教とは何ぞや」という題で、この七仏通誡偈を話したことを思い出しました。即ち悪いことはするな、諸々の善いことは奉じて行え、すると自身の心が清浄になる。すると円満な人格が完結する、これが仏教だとの意です。これを聞いた白楽天は大変立腹した。身はいやしくも科挙の試験に合格し,州の長官になったのに、子供だましも甚だしい。そこで「そんなことは三つ子でも知っている。馬鹿にするな。」と言ったところ、禪師答えて曰く、「三つ子の知っていることでも、白髪の老人が実行できない場合がいくらでもある。実行できないのは仏教とはいえない。」と。白楽天は如何にもおおいに感心して、それより種々の教えを乞うたと言うことです。
次回は八正道の第一正見について書きましょう。
平成18年12月 一年を省みて 一生の内一年というのは私たちにとっては貴重な一年だし、何事もなく唯なんとなく過ごすようでは誠に勿体なく、本当に惜しい事だと思います。特に一般のサラリーマンの人は定年後からの一日一日は、人生に於いて充実する方も多数ではないかと思います。私たち僧侶は七十才を過ぎますと後継者へ住職を譲るのが普通ですが、私のような坊主はそれもならず、いまだに十年、二十年先の長泉寺の事業を考える様な次第です。ここ二、三年は、私の人生の一大思考性の挫折で精神的にも肉体的にも何をするにもずいぶん年齢を重ねた様に思います。昨年は、これまではずっと六十九才と自分自身思っていましたが、今年は、今月で丁度八十才になり年相応と云われます。人生九十才の時代ですから、定年という線を引かれた方達はこれからの十年二十年先の事を考えて人生設計を建て、一日一日を着実に八正道のお釈迦さまの教えから少しでも豊かな生活が出来ますように出来ればと思います。
来年は猪年です。猛進と同時に衣食住に気をつけ、止悪作善で一年を大過なく無事に暮らしたいものです。
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