寺報 『朱湯山』 −抜粋−
2000年まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、パソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。
-
平成17年1月 正月を迎えて
年々歳月の早く感じるのは、私も老人の部に入ったからかと思われます。菜根譚(サイコンタン)、古い本を読んでいたものだと思いながら、この中に「日既に暮れて、なお、烟霞絢爛(エンカケンラン)たり、歳まさに晩れなんとしてさらに橙橘芳馨たり」と、日は既に暮れても夕焼けは尚美しく、西空を染め、時は正に熟して蜜柑などは一段と芳香を放つとは丁度今頃のことでしょう。十数年前より老齢年金を頂けるようになり、子供の世話にならなくても或る程度生きていけるようになったと老人になる者は喜んだのもつかの間、今迄子供は親の世話をする者だと教育を受け,又十年二十年先に皆の世話をするものと思っていたのが、学校の教育か社会か政治家が世間を変えたのか、老人の充実した晩年を送る思いは夢と消えつつあることを思うと悲しくなります。
老後元気で暮らすのはどうしたらよいのだろうとよく聞かれます。私は毎日規則正しい一日を送り、病気をしなければ或る程度長生きできると、もう一つ若さを保つことも出来るのではないだろうかと話します。最後に座右の句を一つ
「努め励むは不死の境地である。 怠りなまけるは死の境地である。 努め励む人々は死ぬことがない。」
結集の大会議(第二回目) 不淫戒の制定
教団に入団した優波離(ウバリ)は少しも階級の差別無く、平等裏に和気を以て僧の集団の美風が保たれていましたので、ウバリは心より歓喜の念耐えず、出来るだけ努力精進して仏意に正しく答えようと持律堅固の修行にいそしんだ結果、持律の方面に於いては多くの弟子の中にあって、第一人者と認められるようになっていました。
そこで佛遺教の結集にあたって彼は特に皆さんの指名により、律の誦出の大任に当たることになった。
そこでウバリは設けられた高座にのぼり、議長である迦葉尊者の問いに応じ律のひとつひとつの條目について、それは佛陀が、何時何処でどんな人々について如何なる事情のために制せられたのであるか、更にそれを犯したものの有罪、無罪の程度はどうか等、自分の記憶のままに微に入り細に入って、誦出しました。
元来律というものは佛陀が弟子たちの日常行為を規定されたもので、若し作法のかなわない者には不作法を制し、若し放縦に走る者には放縦の戒めるといったようなことで、個人の犯罪の都度、これを制し、やがて弟子一般の禁戒となりました。たとえば比丘としての最大重罪の一に不淫戒を設けましたが、これは須提那(スダイナ)という弟子の犯行が元となって設けられた戒です。では、先ず不淫戒制定の事情を説明しましょう。
須提那というのはベーシャリ国のカランダという土地の或る金持ちの一人息子でした。若くして仏教に帰依し、出家し、修道にいそしんでいました。家では一人息子を失くし、跡継ぎがなく、非常に心配し、スナイダが郷里へ托鉢に来たのを幸いに「どうか還俗(僧をやめ俗人になること)して家にいて家業を継いでくれないか」と告げました。然し求道んじ燃える彼は一言のもとに断りました。然し、何としても跡継ぎの欲しい家族は、スナイダの妻に「こんど月経が終わるときが来たら知らせてくれ」とひそかに計略を練りました。
妻はこの思いがけない言葉を聞いて、恥じらいの念にためらいましたが、やがてその時期になりましたので、母に告げると、よく嫁に事情を言い含めて彼女に新婚当時の晴れ着を着せ、化粧をさせると、母は嫁を連れ、スナイダの許をおとずれました。あでやかな若妻との歓楽の思い出に青年の心をおびき寄せようとしました。
然し、鉄石の如き、求道心に容易にうなずかなかったのです。そこで、母は仕方なく「どうしても帰ってくれないならば、せめて後嗣を生ませて、私たちの代をたやさぬようにしてもらいたい」と切願しました。何故かというと、古代インドの法律としては、後嗣者なき者は、いかに巨万の財産があっても、悉く官に没収されるという掟となっていたので、スダイナの母はその子と富を惜しんで、この行動に出ました。
さてこの頃には未だ教団の間に淫行の制裁が出来ていませんでした。スダイナは別に深く思案せずに、その母の申し出を受け妻と契りを結び、妻は直ちに妊娠し九ヶ月にして玉のような男子を産みました。
そこで、その子を種子と名づけて大切に養育しましたが、この子も後に出家して悟りを得、種子尊者として大徳となられました。
それはさておき、一方のスダイナですが、出家の身として慚愧に耐えずこれが深くき煩悩となり態度に表れているのを親友の一人が尋ねると、スダイナはさも恥ずかしげに事の由を告白したのでした。友人は大いに驚き「それは大変だ」と仏陀の元に駆けつけその旨を告げた。
仏陀はこれを聞き召されて痛くスナイダの邪行をお叱りになされ「もし比丘の分限で有りながら淫行を犯したものは、正しい出家者としての生命を失う波羅夷(ハライ)(断頭)の重罪をかもすと心得よ」と戒められ、それ以来一般の出家の戒律として不淫戒を決められたのです。
平成17年2月 涅槃会 (お釈迦さま入滅の日に行う法会の事。)
涅槃とはニルバーナのことで、元来亡くなった境地のことをさすが、お釈迦さまの入滅をさす言葉として用いられる。日本や中国では釈尊入滅を二月十五日とし、毎年涅槃図などを掲げ「仏遺教経」を誦して釈尊をしのびます。長泉寺の薬師祭の日には座敷の床の間に涅槃図を掛けます。
この図の涅槃像は寝釈迦ともいいます。釈迦のニルバーナに入った状況を写した物で、頭北面西、北枕で右脇を下にし、西を向いている図で、四本の沙羅双樹に囲まれ、宝台の上にあり、眠る。その周囲に諸菩薩、仏弟子、国王、大臣、諸天、優婆塞鬼神、畜類等集まり、泣き悲しみ、仏母マーヤ夫人も写されている。
日本に於いては奈良時代に興福寺で涅槃会が営まれたのが始まりとされています。徒然草二百二十段にも載っています。
法の結集 第三回目 阿難の誦出
律が終わりますと、今度は法の結集に移ります。これは律と同じ形式によって行われたことは云うまでもありません。この誦出の大任に当たったのが、阿難でした。
前にもふれましたように、いよいよ結集が開始されようと切迫した前日のこと、議員中 唯一人未だ道成じず悟りを開かず、羅漢の位に達していない自分が、神聖なる事業に加わることは出来ないと夜もすがら懊悩していた時、しばし疲れてまどろんだところ、もはや邪念も私欲もすっかり除かれた為か、忽然として羅漢 大悟に目覚めました。彼の喜びは如何ばかりだったでしょう。
そこで初めて法の誦出に参加する決心が出来たのであります。
阿難は先に少し申しましたように、二十数年間仏の側に給仕し、あらゆる教説を拝聴しましたので法の誦出にもっとも適切な人と認められ迦葉尊者の発議により、直ちに推されて大任につくことになりました。
阿難は設けの座に登り、迦葉の求めに応じて各々の部分について、それは仏陀がいつ、どこで、誰々に、何人に向かって説かれたもので、その内容はどうだと云うことを彼の記憶のまま、微に入り細に入って誦出しました。
例えば、「長阿含経」の中におさめられた「梵動経」というのについて、迦葉の問いに次のような問答が交わされたと伝えられています。
問:「阿難よ、『梵動経』は世尊が何処でお説きになったのであるか?。」
答:「尊師、それは王舎城とナランダとの間のアンバラツチカの王家に於いてであります。」
問:「何人に対して説かれたのか?。」
答:「出家のスビヤと青年のボンセに向かってであります。」
問:「どういう理由で説かれたのか?。」
答:「それはこういう理由であります。」
こんな風に経の由来、関係する人物から、更にその内容まで、つぶさに説かれています。この問答の間、外の議員たちは、これを聞いて何等異議がなければ一斉に合唱して、その記憶を確かめ、反復、合唱の間に仏説を明瞭にし、布教に使うため、一生懸命に覚えたのです。
このようにして順次この事は進んでいきました。
ところが正直な阿難は、この法の誦出の終わった時、議員たちにいうには、
「仏陀が今、正に入滅せんとする時、私に告げて云うには、『比丘若し軽微な律を廃したいと思うならば、廃してもよい。』とのことでした。」
議員たちは異様なことを聞くものだと、一同阿難に尋ねました。
「その仏陀の仰せの軽微な律とはどんなものですか。」と
「それはどんなものであるか、仏陀に尋ねなかった。」と。
そうなると比丘の間に様々の議論がわきあがりました。
・甲の云うには、「私はは四波羅夷以外のものをさすのだと思う。」
・乙の云うには、「私は四波羅夷と十三僧残以外のをさすのだと思う。」
・丙の云うには....
「私はその外に二不定を除いたも」...
「私はその上に三十尼サツギ波逸提を除いた外のものだ」...
「私は、、、」...
「私は、、、」喧々ごうごう何時果てるとも際限がないように思われた。ややあって議長はこれを鎮めていいますには、「皆さん静かにして下さい。大体この問題は世間の人達のおもわくも考えねばならないでしょう。それは我々は遺弟がよく戒律を守れねばならないということも知っている。それは我々が軽微な律だからと、それを捨てれば彼等は何というだろうか。
恐らく見よ、あのざまは、沙門瞿曇(さもんぐどん)が弟子の為に法を説いたのは可としても亡くなって僅かの月日の間にあのざまは何だ、師の生きている間は忠実に律を守ったが、師の亡き後は少しも戒律によって身を節しようとしないではないか、と。私はそんな悪評を聞きたくないし、又仏教が滅びてしまう。
これ実に世尊に対して大罪でなくて何であろうか。
故に私たちは軽微なものでもよく、ひたすら制戒のまま、よく遵守し、軽々しく捨てるというようなことは慎みたいと思う。これが私の意見である。皆さんご同意願いたい。」と。
この言葉に一人の異議をはさむ者もいませんでした。
平成17年3月 春の彼岸会 今年の春のお彼岸は三月二十日から二十六日迄です。
何時の頃から始まった行事か定かではありませんが、源氏物語に「彼岸の初めにて、いとよき日なりけり」と、また蜻蛉日記にも彼岸の記述があることから相当古くからこの行事が行われてきたと思います。
私たち日本人は、農耕民族でしたので四季の移り変わりが最も大切で自然と共に生き、太陽、月、に感謝し恐れたものです。
また先祖の恩に感謝し、生きている事の尊さに毎日手を合わせたいものです。
だから「今日彼岸、菩提の種子をまく日かな」と句ができたのです。
昭和三十三年国民の祝日として、春季彼岸が「春分の日」、秋が「秋分の日」と決められ「先祖を敬い、亡くなった人をしのぶ日」と定義され今日に至っています。
お彼岸はどうぞお寺やお墓に今日ある自分と家族の幸せに感謝しお参りください。
法の結集 第四回目 阿難の人格
一時は議長の迦葉(かしょう)尊者の説に同意したものの、阿難が世尊について軽微に律の何であるかを問わなかった過失について糾弾し始めた。
「阿難よ、御身が世尊に対して、その軽微な律に対して何か問わなかったのは、もっての外、我々に謝罪しなさい。」と云い。
答えますには「ついうっかりして心に掛けなかったからです。
だから皆さんに謝罪せねばならぬ程の罪とは思いませんが、強いて云うなら、謝罪しましょう。」と答えて、請われるままに謝罪しました。
教団第一の美男子と謳われた彼は、唯その容姿だけが気品に富んでいただけでなく、その心の奥底まで、おっとりとした貴公子だったのです。阿難は素直に人々に詫び入ったにもかかわらず次々と攻撃を受けたのです。それは、「世尊が入滅されるや、御身は女達をしてその聖骸に向かって礼拝せしめ更に親しく接近させたもので、女達の涙で汚されました。あれは以ての外、不教罪である。よって御身はそれを公衆に謝せねばならぬ」と云いました。
阿難答えて「私は比丘尼達が、いつまでも聖骸に侍っていることができないと思い、その不愍(ふびん)を思って別れを告げさせたので軽率にやったつもりはありません。だから別にさしたる罪とは思わないが、諸君がたってと云うなら謝りましょう」と云い。
また比丘衆が云うには「元来教団では厳重に女人の得度を禁じてあったにもかかわらず御身が世尊に乞うてウドンミの得度を取りはからったのは、まことに不都合である。よって御身は一同に詫びねばならない」と云った。
阿難答は「なるほど私はウドンミの得度を取り計った。しかし、あの方は世尊の叔母様であり、義母で大恩あるお方で私として黙止するにしのびず、強いて世尊に請願して、得度を許して頂いたのです。私としては不都合とは思いませんが、諸君がたってと云うなら、私はお詫びしましょう。」と云った。私としては益々、阿難の優しい、親切さを感ずるのであります。
この結集は徳高き聖者方の集まりの浄業と思いますが、いつの世にもありがちの、こうした曲折を免れなかったので、誠に浅ましく思う次第であります。
こうして波瀾に満ちた結集も果されることになりました。丁度このころ十大弟子の富楼那(フルナ)は、多くの弟子達を率いて南山地方を教化していましたが、たまたま、上座の比丘達の結集が終えたと聞いて、そこへ訪ねて来ました。
そこで上座比丘が彼に云うには「いま我々が結集を終えたところです。どうぞそれに同意願いたい。」と云った。
富楼那は、その結集の詳細を聴いて、「皆さんよく結集を果された。私はそのほとんどに異論はない、しかし、律中の食法の八事だけはどうしても同意できません」と云い、
食法の八事とは、伽藍の中へ食べ物を貯え置くとか、煮炊きするとか、食事の食べ方など、全て食事に関する事です。これらの事柄は世尊が、既に差し支えないと許しているところで、この結集では、このいずれもが禁制されていることから、甚だ不都合だと富楼那は云うのです。
そこで迦葉尊者は、「いかにも仰せの通り、世尊はそれらをお許しになっている。しかし、それは飢餓その他で食べ物の獲得が難しい時にのみ限り特別に許された物であって、もしそうでなければ、決してお許しになる筈はない。」と云い、
富楼那の云うには「世尊は一切知見、まことに無常の覚者であるから、一旦許したものを又制するというような、そんな曖昧な事をなさる筈はない。」と云い、迦葉は「世尊は一切知見であればこそ、一切許されても又制されるのである。」と云った。
こうして双方しばらく押し問答を重ねていましたが、富楼那は到底証なしと見て取ったか「では仕方がない、この上は親しく世尊から拝聴したところを自分の了解のままに守り実行しよう」と、言い捨ててそこを立ち去った。
戒律奉持の解釈については迦葉と富楼那の見解の相違があったと思われます。迦葉は極めて厳格な形式尊重主義者であり富楼那は形式より内容尊重の自由な見解の方だったと思われ、これらの考えが仏教思想上多大の影響を及ぼしたと考えるのは当たっていると思われます。保守と進取の対立でしょう。
この対立は仏滅後月日が経つにつれ顕著になっていきます。いわゆる大乗と小乗とか、顯教、密教とか聖道、浄土とか云ったような複雑な教理の相違となって現れてきています。
さて、このとき結集された法と律とは来月号に続きます。
平成17年4月 法の結集 第五回目
この結集は七ヶ月にしてようやく終了しました。これを一般にはその事業に携わった上座のその数にしたがって五百集法といい、又その結集を行った場所に従って、王舎城結集ともいい、又最初にあったので第一結集ともいいます。
吠舎離結集 第1回(ベーシャリケツジュウ) その後、いつしか百年ほど僧侶たちは布教に専念していました。お釈迦様の時代の弟子たちは、今はとっくに昔の人となってしまいました。
正風派の摩訶迦葉尊者や形式より内容尊重のきわめて自由な見解を抱いて布教した両派は、別段衝突は起こらなかったが、永い年月の間にはだんだんとその見解の溝は広がり、その後、律の解釈に関しては両派は遂に意見の衝突が起こりました。
ある時、そのころの教団の長老といわれた耶舎(ヤシャ)という人が、遊化(説法して歩くこと)して吠舎離の都へ来て重閣講堂という精舎(お寺)へ留まっていた時のことです。
たまたま布薩会(フサツエ)の日にあったものですから、耶舎もその法会に列席していました。
そこに居ました、跋耆族(バツジ)の比丘たちが銅鉢に水を入れた物を携えてきて参詣の信者たちに向かっていうには「諸君、どうか比丘たちに若干の金銭を御喜捨願いたい。
比丘たちは今お銭の入り用があるから」と。それを聞いていた信者たちの中には沙門に随喜するあまり、直ちにお金を投げ入れた者が多少ありましたが、中には「沙門がお金を乞うとはどうしたことか?」とその無慚悔をにがにがしく思う者もありました。
耶舎はこの様子を見て大いに驚き、叫んで云うには「比丘が金銭を受け取るとは正しく戒律違反で世尊の禁止されたところである。
又、それに施す信徒の方も罪を免れないだろう。」と戒律には捉金銀宝戒という戒律が堅く禁止されていたからです。
然し耶舎の抗議に対して比丘たちは少しも悔悛の情を見せず、返って篤信の信徒をはずかしめた。それに対して謝罪させようとした。
然し自分の云ったことは比丘らが非法を行わせようとしたためだ、と力説した。そこで信徒たちは大いに感激して、耶舎が唯一真正なる比丘であると賛嘆し、衣食、薬品等種々の供養の品を捧げた。これを聞いた比丘らは憤慨やるかたなく、耶舎を追放した。
それのみならず彼等は従来主張してきた種々の異説をたてて、平然とこれを敢行しようとした。その主なものに十条あるので普通これを「十事の異説」といっています。
@比丘が金銭を受け取っても差し支えない、即ち角のマスを用いて塩を入れ、 旅先で食物を食べても差し支えない。
A正午より後、日影が二階の巾をすぎるまでは食事をとっても差し支えない。
というように一見極めて些細に思われる事柄ばかりで比丘らはいずれも良いではないかといったものです。
そこで、耶舎はなんとかしてこれを匡正したとの思いより、同志の協賛を求めるために西方のコーサンビーの地へ行きました。
当時は中インドの東部地方では自由思想を抱ける者が多く、西部地方には保守思想を抱く者が多かったようです。そこで西部の比丘たちは耶舎に賛同し、東方の比丘たちはいずれも
跋耆族(バツジ族)に加担したので色彩が分かれたのです。
平成17年5月 吠舎離結集 第2回 正風派と正意派は自分たちの意見のどちらが正しいか決定しようと、事件発生の地である吠舎離に会合することにしました。そこに実には七百人が集まり、あまりにも多いので衆議粉々として容易にまとまりませんでした。
そこで、長老リバタの提案により両派より各々四名の委員を出して議事の進行に当たることになりました。
リバタは西部の委員の一人となり、一座の議長の任にもつきました。
こうして議員たちは逐次詳細にわたって討議を重ねていきましたが、何分にも議長が正風派のリバタです。また、かの耶舎もその中に交じっていました。
正風派の人々は長老が大半を占めているのに反し、正意派は大部分が青年たちの集合体でしたので、自然に正意派の面々は正風派の長老たちに屈服することとなりました。その為、結局正意派の敗北に終わり、十事の何れもが悪く非法であると判定されました。この会議は前後八ヵ月を費やしたということです。この結集に参加した人数に因み、七百集法といいます。また、別にベーシャリ結集や、第二結集ともいいます。
この結集は律の正否に審議が一貫したので、経典については何等変更はなかったのです。
表面上は両派とも納得がいったようだったのです。
正意派の青年たちの間に長老たちに向かって反抗する態度が示されてきました。
ここにおいて仏教の一味一体を以って謳われた仏教教団もついに分裂して正風派、正意派各々党派を立てる事となり、正風派は長老たちが多く、主部を占めていたので上座部といい、正意派のほうは大部分が青年たちの集合であったので、その一派を大衆部といいます。普通小乗仏教中に上座部と大衆部の二部があったといわれるのは、この分裂した結果を指すのであります。
上座部はひたすら仏説の形式にのみ拘泥して、いわゆる小乗の思想にしがみつき、
大衆部はもっぱら仏陀の精神を汲み取ることを眼目としたので、小乗思想に飽き足らず自由に仏意のどこにあるかを考え、幽玄な心理の開顕といった方向に向かいました。
ただ、現在の大衆部より大乗仏教へと発展したことは心理の探求という面に於いては納得がいくし、私が認めるのはおかしいが、小乗仏教の釈迦如来当時の思想と当時の律と行の考え方を。現在の仏教徒は原点に返ってもっと考えてはどうかと思います。
平成17年6月 華氏城結集 第一回及び第二回の結集によって仏説の法と律とが編纂、審議され、これにより後日教典としての形態の原型が、ほぼ整いました。
律は、仏弟子及び信者の非行を正すのが目的でしたので、ただその程度をどうするかで、大乗、小乗教と別れたのだと思います「法」即ち「経」の方は仏弟子をして、その深議を了解させることが肝要でしたので、その前には学徳の秀れた人達が、それぞれ論究し討議して、その解説を発表するようになりました。その注釈を「論」といいます。「論」とは梵語の「アブヒトハルマ」を訳したもので「アブヒ」は「・・・に対して」又は「・・・に関して」と云う意味で「ドハルマ」即ち「法」で法に関しての意味になり、法の解釈と云うことになります。
釈尊在世中や滅後すぐの時代には、さほど必要は無かったのですが、日時が経つにつれ段々とその必要性を感ずるようになり、法の解説が大いなる価値が高まって来て、遂に「法即ち経」「律」「論」が編纂されるようになりました。
「経」とは、梵語のスートラの訳で常を意味し、常恒不変永久に変わりなき真理をを表します。仏説を表すのに適した言葉ですので、この三種の対立に当たって法の名が経と代わったのです。この三種は経蔵、律蔵、論蔵を三蔵と呼びます。この三大要素が成立したのが仏滅後二百三十余年を経過した「阿育王(アショカ)」の時代です。
立夏
今年の立夏は五月五日、節句に当たります。連休中で年忌法事があり、朝四時半にいつものように起床して、仏間の方へ廊下を歩いていると、蚊の羽音が聞こえてきました。昨年の今頃は、まだ母は元気で仏間に寝起きして居ましたので、蚊が出だすと半年間は蚊取り線香を一日中使用していたのを思い出します。未だ昨年まではトイレにも一人で行けるほど元気だったことを思い出しました。昨年の夏は記録的な暑さで、さすがに元気だった母も体調を崩し、デイサービスにも行けない状態になり、市内の病院へ入院することになりました。また、父も十三年前に交通事故が元で退院後に体力が衰え回復せず五月の連休中に再入院し、肺炎を併発しました。最期は自宅の寺で治療をと、病院に何度かお願いしたのですが許されず、一ヶ月後に極楽往生したのもこの季節でした。気温変化のあるこの時期になると思い出されます。
阿育王(アショカオウ)@ 王はインドの諸王中、古今の偉人として名高い名君で、特に仏教史上、正法の保護者として、キリスト教に於けるコンスタンチン大帝に比較されます。王が仏門に入られた動機については誠に悲惨な事情がありました。
王はインド統一の偉業を企図した、チュンドラグプタ王の孫に当たり、その性質は極めて残忍かつ大いに覇気に富んだ性格であったのですが、大体、世界中でもこんな人でないと大きい国の統一はできないものです。王の父はビンバーサーラ王と云って、チャンドラグプタ王の偉業を支持された人でした。かくして、即位第九条、いよいよ、全インドの統一を確実にする為、南方のカリンガ国を征討されました。
当時カリンガ王は南インドに強大な力を持っていた国でしたので、両国の戦闘は甚だ激烈を極めたようで、死者は数十万人にのぼったようです。
阿育王の軍は大勝し遂にカリンガ軍を降伏させることができました。王は、この戦の寿ぐ為に、営内に一大祝賀会を催し兵を厚く労いました。兵士達は大変喜んで、各自の武功を誇り乱舞歓楽の限りを現しました。その様子を見ていた王は、何を感じたのか、その場を抜け出し、城壁上に立って外を眺めるとそこは、昼間の激戦のあった野山です。雲霧のごとく両軍しのぎを削り激戦極めた戦場も、今は全く鳴りをひそめ、ただ累々とした死者を認めるのみでした。一様に肉破れ骨砕け吹き渡る夜風は血生臭き香りを送ってくれるばかり、阿鼻叫喚の昼間の光影が再現され、胸中耐え難きおののきを覚えながら、化石のように立ちつくしている。戦勝の誇りも侮恨の情が頭をもたげ、どうすることもできませんでした。
平成17年7月 阿育王(アショカオウ)A
阿育王は戦争の如何に悽愴であり、悲惨であるかを実感し、いたたまれない煩悩に襲われ始めた。これまで戦勝の勇者として雄々しく凱旋し、インド統一の理想を果たし遂げたが、今日より以後は如何なることがあっても絶対に戦争はしまいと決心し、慈愛を旨とする宗教によって統治の実を挙げようと念じ、王が後年発布された詔勅の一つに
「天愛喜見王(阿育王の異名)即位八年の後、カリンガを制服す、捕虜となれる者、十五万人、殺された者十五万人、その他飢餓、疫病等のため死亡せる者、幾倍になるか知れない。カリンガを併合してよりこのかた、天愛は心を専らにして正法に帰依し、これを護持し、又その教条を弘通(ぐすう)す、これ即ちカリンガが制服にもとづける天愛の懺悔に出ずるに外ならず。けだし戦争によって無辜(むこ)の人民が殺戮と死傷と俘虜との痛ましき類の必ず生ぜんことを免れず、これ天愛の、いと深く痛心哀泣して措かざる所なればなり。」
というのがあるをみても、当時の阿育王の胸中を推し量ることができると思います。この頃、一般王族の間に行われていた婆羅門にあっては犠牲、苦行等の残忍な行為をあえてして、少しも顧みるところがなかったので、王の心にはこんな事はもとより容れられません。これに反して仏教では専ら博愛仁恵を旨とし、平和を謳い、共栄を喜ぶといった有様でしたから、王はこれこそ尊い正法であると直ちに仏教に入り、忽ち熱心な信奉護持の信徒となられたのです。
一度仏教信徒となるや正法護持と平和の治世に心を用い、その事業の数々は実に枚挙にいとまがありませんでした。かく仏教に手厚い保護を加えたので、その隆盛と共に僧、尼の数がにわかに増加し、一時は首都華氏城の大伽藍 鶏園寺の中に、六方の僧侶が集まったということです。
すると、王の供養にあづかろうと外面僧形を装って、内心少しも婆羅門の業を捨てない者が多数混入して、正邪雑乱して和合を欠き、布薩の作法を行わないことが数年に及んだという事です。そこで、王は教団の秩序を整頓する必要を感ぜられ、学徳高い目?連子帝須(もっけんれんしていしゅ)という人に命じて教条の確定、衆僧の和合を図らせられました。
帝須は勅を奉じて鶏園寺に入り、有徳の比丘衆一千名を選び、自ら議長となって会議を開きました。このとき王の即位第十八年即ち仏滅後二百三十五年のことでした。その会議は九ヶ月にわたり無事終わりました。これは第三回結集であって、又議員の数に従い一千集法といい、或いはその場所に因み、華氏城結集といわれます。この結集の主眼は教団の紊乱(びんらん)を正すこと出したが、特に論の結集を果たした事に注意せねばなりません。一千人の僧侶の中に沢山の学者がおられ、その方達の述作の内、「法聚論」「発趣論」「施設論」等この時初めて編纂されたといわれています。この時初めて経、律、論が出来上がったのです。この三蔵が後にセイロンに伝わって初めて文字に記され、現在ある、巴利(パーリ)語教典になったと言われています。
平成17年8月 迦湿弥羅結集
先月はパーリ語の教典がやっと出来た所まででした。その後、経は仏陀の言った詞、律は仏陀の制定した戒律、論は経を菩薩、聖者と言われる方達によって盛んに作られ、それが書物になりましたので、結集の必要はないと思われたのですが、仏滅後、およそ六百年ころに世に出たカニシカ王の治下に行われたということです。
カニシカ王は中国の甘粛(カンシュク)地方にいた大月支族より出て、印度北方に国を建てたケンダの君主で、凪に仏教を奉信して、その護持すること極めて篤く、仏教史に第二のアショカ王といわれるほどです。当時の仏教界内の有様を見るに上座部、大衆部の末流に於いて幾多に分裂し、互いに相確執して困った状態の時でした。前に一言したように、第二回結集の際を機会として上座、大衆両部の分裂があってより、幾多の分裂を重ね、十八部の分裂を見るに至った。あまりにも多くの僧の意見に王も困られ、高僧の脇(キョウ)尊者に向かって「一体全体仏教は等しく仏陀の全口より出ているのに、沢山の僧の説く所、かくもまちまちであるのはどうしたことか。」と尋ねられた。この脇尊者という人は、学、徳、人に優れた人で、修学の為には三年間脇を席につけず、即ち横になり安眠することなしに努力したので、脇尊者といわれただけあって、王が非常に崇敬しておられた方です。そこで尊者は王の問いに答えていうには、「仏滅後、年月の経つにつれ、弟子達は互いにその意見に確執し、どちらが正しいか否かを決するのはむつかしく、衆僧の説くところがまちまちでも決して間違っていません。それについて仏陀はかねてより教法の中にかく預言しています。たとい、私の滅後、仏教がいかほど分裂しても、その一つ一つが全価に値する事に何等かわりはないものだ、と。だから大王にも、それらの異説を御懸念あそばすことのないように。」
そこで王は語を重ねて、「ならばそれらの中で、どの部が一番規範とするに適しているだろうか。私はその中で最も良いものを修得したいと思う。」とたずねた。尊者が答えていうには「諸部の中、説一切有部の教義が、もっとも善美を極めていると思います。大王若し御修行の思し召しがおありならば、よろしくその教義に就かるがよろしいと思います。」と。
この『説一切有部(せついっさいうぶ)』というのは仏滅後三百年の初め頃、上座部より分かれた一派で、一切万有はそれぞれ各々の元素より成り、過去、現在、未来、三世にわたって恒に存在するという、多元的実在論を主張する学派です。上座部の正統に相承した学派二十部中で最も完全にその文献が伝えているものです。脇尊者が王にすすめた為に、王は大いに喜び、この有部の奉ぜる教典の結集をしようと思い立ったのです。
平成17年10月 母小菊初盆のお礼
一生のうち何人ものお葬式を出し、初盆、一周忌、三回忌・・・・・とされる方が多いと思います。私も両親、妻と三人をお浄土へ見送りました。極楽寺と長泉寺の両方で、母の初盆を無事行おことが出来ました。また、檀家参りでのお礼が充分に出来ないこともあったと思います。遅ればせながらお礼申し上げます。
カシュミル結集 一度カニシカ王が説一切有部の奉ずる教典の結集をしようと決心するや、諸国に令を出し、それに応じて全国より希望する有徳の僧が群がり来るという有様でしたから、特に学問の優れた者を選んで、四万九十九名を得た。その中に尊者世有(セウ)という人がいて、未だ證りを開いていなかったので、衆僧はこの人を取り除こうとしました。然るに世有のいうには、
「自分は無学(もう勉強する必要のない人)などの小さな事は望んでいない。そんな者は眼中にない。自分の最終目的は仏果の大覚にある。それ故なまじっか無学の脇道に入らなかったのだ。」と来ていた粗服を宮中に丸めて投げたところ、未だ地に落ちない先に忽然として無学証りを得ましたので、諸天が一斉に讃嘆いたしました。並み居る羅漢達はこれを見て大いに驚き、前言の誤れるを謝し、議員に加えると同時に会議の議長にし、五百名を以て会議を開始する事になった。
次に会議の選定ですが、本国のケンダラは風土の上からこの事業に適していませんでしたので、第一回結集のあったマガダ国の王舎城で行おうとしましたが、衆僧はカシユミルの地を希望しましたので、王はそこに大伽藍を建てて、事業を挙行することにしました。カシユミルの地はアショカ王の頃より、上座部の正統の盛んなところでしたので、特に皆さんが希望されたのです。先ず経、律、論の注釈ですが、経蔵の注釈としてビナヤビバシヤ十万頌を作り、計三十万頌、九百六十万言の大注釈書が出来上がりました。頌(ジュ)とは多くの韻文(インブン)を指す言葉ですが、また典籍の分量を数える単位として用いる事でもある、三十二字を一単位として、これを一頌といいます。それで三十万頌でしたので丁度九百六十万字になります。
この結集が終わるや、王はこれを赤銅板に刻み、石函に収めて塔の中に納め、警備の兵に守護させ、唯自国民のみ見ることを許して他国人には禁止した。と同時に、この教典の散逸を防いだのです。これが即ち第四回結集で場所にちなんでカシユミル結集といいます。この完成には何と何回も修正が行われて実に十二年の歳月を要したとの事です。
平成17年11月 別府の地獄めぐりと寺参り
皆様は、別府へ来られたら地獄めぐりをされることが目的の一つに成っていると思います。因縁が悪いのか、現世で苦労しているのか、海地獄、龍巻地獄、血の池地獄、釜地獄、山地獄、坊主地獄など、たくさんの地獄見物に来て、将来死して自らが行く所を考えているのでしょうか?そんなことはないとは思いますが、どうせ行くなら、地獄より極楽へ行く方がよいのではないか。そこで、地獄見物の後にはゆっくりと温泉に入り身体を清め、良い気持ちになった後、お寺参りをしてはいかがでしょうか。幸いにも私方の長泉寺は龍巻地獄の温泉を引いて別府八十八湯の一つとして一般に開放しており、全国各地から入湯に来られます。また、長泉寺は浄土宗ですので、お前立は勿論阿弥陀さまですが、本尊は薬師如来です。現世での色々な方々の悩みを癒し、希望を与えてくださる仏様と思えば、お参りせずにはいられないと思います。
別府に来られた折りは是非、長泉寺にお参りされてはいかかがですか?悩み事のある方は住職に気易くご相談下さい出来る範囲でお答えします。
阿毘達麿大毘婆沙論(アビダツマダイビバシャロン) 十二年の長い歳月をかけた五百集法も経律論の注釈も、論だけの注釈だけ伝えられ、それが唐代の有名な玄奘によって中国で翻訳され「阿毘達麿大毘婆沙論」三百巻として現存しています。この本は、小乗二十部の相違した学説を批判して、有部の教義を大成したもので、その基づく所は「六足」「発智(ホッチ)」等の諸論によったものと言われています。これは釈迦の在世中に、舎利佛によって作られた「アビダツマ集異門足論」、目蓮によって作られたアビダツマ法薀(ホウウン)足論」というのがあり、滅後「ダイバ設摩(セツマ)」によって作られた「 アビダツマ識身(シキシン)足論」に世有(セウ)によって作られた「アビダツマ品類(ホンルイ)足論」等、前後総計六種の論書が出ました。これら六論をもとに、後世タエンニシという人が「アビダツマ発智論」を作りました。この「発智論」は実に有部教学の綱格はかれにより大成されたと言われます。よって有部の身と言われるので「身論」といい、彼の六論はその根底である足と言われ、「六足」「発智」と併せ称せられるのであって「阿毘達麿大毘婆沙論」は、実に「発智論」を根拠とし、更に「六足論」を参考にして出来たものです。右の「六足」「発智」の緒論の何れも「阿毘達麿」というのは梵語の「アブドハルマ」の音表で「論」ということです。然して、この結集の行われた仏滅後六百年前後にはこうした「阿毘達麿」研究が仏教教団内部に台頭して続々と論書ができ、又学派が出来てきました。即ち「中観宗」「法相宗」等です。「毘婆沙」とは梵語の「ヴィブハーンヤ」の音表で「広説」と薬師、教法の深義を広説布衍する、の意味です。
この結集は、このように編纂とか著作という事業であり、厳密にいう結集でなく、即ち結宗し、合誦して決めるものではないが、古来一つの結集に数えられています。
以上のように、数回の結集により経律論の三蔵が出来上がりました。この三蔵が教典を形成する三大要素であります。これ即ち、経蔵、律蔵、論蔵です。元来 蔵とは梵語のピカタの訳語で籠という意味で、入れ物ということです。カゴには花を入れたり果物を入れたり色々な物を入れます。仏典一切経をいれるもので、中国語に訳すとき、籠では適当でないとのことより蔵の字が当てられたのです。即ち経を集めた経蔵、律を集めた律蔵、論蔵となったのです。この三蔵は後世、この三つに通達した人という風に羅什三蔵とか玄奘三蔵というように言われるようになってきました。
平成17年12月 論と釈の違いと教典の言語
先月号で経・律・論を三蔵といいました。即ち経と律はお釈迦様の言われたことですが、論とは仏説ではなくて、菩薩や聖者といわれる方の述作をさします。特に仏教の正意にかなったものだから論とよびます。後世、支那の学者達の作った経・律・論の注釈書で、六蔵経の中に納められているものでも「釈」といっています。
真宗の祖、親鸞上人はこの三つの性質を厳格に区別されて、その著書の上で「いわく」という字を用いる場合には「経に言わく」「論に曰く」「釈に云わく」というように三者が混同しないようにしています。今日一般ではよく・・・論とか・・・論文とかいっていますが、仏教の上では昔の方々は教典に対して敬虔な意志を持っていたと思われます。
次に教典に記されている原語は何語だろうかと考えてみると、釈尊在世当時は印度は日本の戦国時代のように、群雄割拠の状態でした。各国が自国語を使い、また四姓の差別烈しい時代で、一国でも上流と下流では、言語の差が相当あったのではないかと思われます。上流の宮中語と普通の俗語、又日本でも東方地方と鹿児島、沖縄の言葉のような違い、いわんや日本の何倍もある国が自国語を話すので、統一することはできなかったと思われます。そこで教典を見ると、強大な勢力を誇っていたのが、中印度のマカダ族とコーサラ族で、前者は王舎城により、後者は舎衛城によりガンジス河を中心に挟み、その南北に対立して互いに覇を称えていました。
釈尊の生まれたのは釈迦族で、この種族は当時コーサラの北方カピラエより中印度の北端を占めた小王国でした。釈尊は成道後は主としてマカダやコーサラを中心に教化され、よく教典に出てくる王舎城やその付近の霊鷲山(ギシヤクツセン)や舎衛城及びその付近の祇園精舎の如きは、一大説法の中心を思わせるものがあります。
この様に考えると釈尊の用いられた言葉はその地方の言葉によるのであって、特に四姓平等をモットーにしたのですから、その地方の言葉を使ったと考えられます。それについて律文の中に、このような消息が記されています。 ある時、ヤメール、テクーラという兄弟の比丘がいてバラ門出の全ての言語、音韻に通達していましたが、仏陀の所へ来て申すには「世尊、今や我々の教団の比丘達は名を異にし、姓を異にし、族を異にするといったように種々の方面より出家したものが集まっているので各人の言葉で仏語を汚しています。そこでこれを高尚なベーダーの韻律に改めたいと思うのでありますが、どんなものでしょうか。」と。すると仏陀は答えて云うには、「お前達、それはならぬ。当を得た態度と云うことができないから、強いてそれを犯す者があったら、それは正しくトツキラの罪を作ることとなるであろう。それ故に仏語のままに学習せねばならぬ。」と。これによると、比丘等に仏語の通りに学習するように命じたことがわかります。
*「突吉羅(トツキラ)」・・・悪作、悪説という。悪作とは身業の所作で、悪説は口業の所作を云う。
|