寺報 『朱湯山』 −抜粋−
2000年まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、パソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。
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2003年 1月号 正月二十五日は御忌(ぎょき)です
- 正月二十五日は御忌です
浄土宗開祖法然上人が建暦二年正月二十五日に寂示しました。
総本山知恩院はもとより全国の寺院でも法要を厳修します。当長泉寺では二月の第三日曜日に百万遍念珠を繰りながら、念珠に思いを込め一心に念仏を称えて御回向します。総本山知恩院に於いては一月は厳寒であるため、明治十年より四月十八日から二十五日まで全国よりお寺さんが随喜し大法要がつとまります。
2003年 2月号 涅槃会(ねはんえ)
二月十五日はご涅槃の日、即ち仏滅の日を云います。
涅槃とは、煩悩の火を消すと云う意味で、苦しみや迷いから解放された、悟りの世界のことです。即ち、お釈迦さまの亡くなったことを涅槃と呼んで、その光景を描いた涅槃図を掲げお釈迦さまの業績を讃え追慕、感謝するのが涅槃会です。
当山の掛け軸には、お釈迦さまが一切の衆生を度し沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で涅槃に入り給える相をえがいたのが、涅槃図といって、中央のお釈迦さまは右脇を下に頭北西面の形で臥(ふ)し周囲に仏弟子の鬼神、畜生などが悲しんでいます。
◆ 長泉寺の入り口にある「薬師湯」が別府八十八湯の一つになりホームページに流したためか、今年に入り大分放送、RKB毎日放送、リクルートの雑誌「じゃらん」などから取材があり一躍有名になりました。
また、厄年の方が遠くは広島や福岡から日帰りで特別厄払いに来られました。ホームページとはすごい威力があるものだと感じています。
2003年 4月号 お寺の住職も管理人
借家の管理人、土地の管理人など『管理人』にも色々な意味があります。お寺の住職も各務の管理人だと思っています。組織としては代表役員であり、管理人でもあります。寺そのものは壇信徒のものであり、住職はその代表者です。
各寺院に於いてはお寺の行事の他に、いろいろな事業をされているお寺もあります。世の中には幾千幾万の会社、事業所があり、その社長や事業主等は『管理人』でなくてはなりません。
私も小さな寺の住職であり、如何にして寺を興隆させようかと思案しています。
管理人としては、毎年、寺の廊下や鉄の手すりにペンキを塗り、三年に一度は屋根に防水塗料を塗っています。最近は、「やすらぎ霊園」の周囲を植木や花で整備し、一年中、鳥がさえずり花に囲まれた霊園にしたいと、時間を作ってはツルハシやバチグワで竹の根、カズラの根を取り、日々霊園の管理人としての勤めをしています。
十年計画での霊園緑化事業ですが、今年はしだれ桜、紅梅、ニッケの木、椿、枇杷二本、花梨の木二本、白木蓮、桜三本、チューリップ百株など二、三年先、五年先、十年先に花の咲く事を楽しみに日々汗を流しています。
戦前は各家庭での管理人は大黒柱、主人が絶対の権力を持っていたのですが、近年は女性上位と言われるように、男女平等など女性優位で主婦の場合があります。家族の一大事の時に夫婦のどちら(もしくは両方)が、けじめを付けるのか、家族が平穏の時に話し合っておくと良いように思います。新聞やテレビでは、家庭の破綻や子供の非行など、家庭での管理人不在と思われる事象が散見されるのは残念でなりません。
2003年 5月号 影の微笑
仏典には沢山の譬喩や教養や道徳など種々の話がたくさん出てきます。
その中の一つに、「大荘厳論」と言うのがあります。
長者の嫁がある時、姑に叱られて家を抜け出し林の中に入り自殺しょうと思ったけれど、そうもならず、木の上に登り身を隠していました。木の下には池があり、丁度そこに一人の下女が瓶を担いで水くみ来ました。ところが池の中に美しい影が映っているのを見て、これを自分の姿だと思い「これ程美しい顔立ちなのに水くみなんかさせて」と一人ごとを云い、その場で「瓶」を放り出し、家に帰り主人に向かい「私の顔かたちはこんなに美しいのに水くみさせるのは余りにも胴欲である」と恨めしそうに言ました。主人は余りのことにあきれ果て、「こヤツ、狐にでもばかされて、こんなワガママを言い出したのだ」と思い。更に一つの瓶を与え「馬鹿を言わずに水をくんでこい」と命じた。下女は仕方なくもう一度水くみに行き先ほどの水に映る影を見て「やはり美しい顔形が見える」ので再び腹を立て瓶を割りました。長者の娘は木の上でこの有り様を見ていましたが、おかしさに堪えかね微笑みました。下女は影の微笑むのを見てやがて娘に気づき上を見ると、立派な身なりをした長者の若娘が木の上で微笑んでいるのでした。そこで、下女は大恥じをかいたと云う話が「大荘厳論」の中にあります。己の分相応を忘れてみだりに虚栄の影を追うこと無かれの戒めです。 近頃、分を忘れて自己破産をする人の多いことは嘆かわしいことです。
2003年 6月号 すずめ
五月に入って自動車の側面が汚れているのに気がついたが、どこで汚したのか? 位にしか思っていなかったのですが、お茶摘みが終わり一段落して気がついたら、チュンチュンとさえずる可愛い声に、ふと上を見ると雀の子が鳴いている。親鳥が餌を小雀に与えるのだろう、何匹の小雀が居るのだろうか?などと思いを巡らした。都会の人が聞いたらさぞうらやましがるだろうと思った。一日お金に成らない事を少しの暇も惜しんで動き回って、ふと気づくと鳥の声、少し前は鶯の声だったか、今日は小雀の声を聞いて五月だなあと思った。
今は、豆の最盛期、三日と明けずに豆ご飯を頂く、九十八歳に成る母の大好物、早く食べさせてあげたい。
今年は早生の玉ねぎがとても立派に採れました。お茶も立派なものが出来ました。例年、五月の大型連休中にお茶摘みをしています。境内に少しのお茶の木から新芽を手作業で摘み、今年はバケツ8杯くらに成りました。その後、大釜で3回お茶の葉を炒り、その間ムシロでお茶の葉を手モミします。ある程度水分が飛びますので、その後炭火でゆっくりゆっくりと水分を飛ばし、無農薬完全手作業のお茶の出来上がりです。市販されているお茶の様にお茶の葉一つ一つが細く出来ませんが、なかなかの味わいのあるお茶を楽しんでします。
緑がまぶしい季節の中、この寺は昔の農家のように種をまき、草を取り、収穫し、日々充実した時間を心ゆくまで過ごせることに感謝し一生を送りたいものです。
2003年 7月号 五字七字の戒め
和歌を詠んで滑稽に長じ、豊太公に仕えること三十年余りで怒りを和らげ、愁を慰める事を以て大いに寵愛された人に曽呂利新左衛門という方がありました。
この方中に頓知のある男ですが、ある時、徳川家康の詰め所へ行ったときの雑談の中に「世の中の人は福の神じゃといって大黒天祭っておるが、なぜ福の神であると云うことを知らぬ、それを知っているのは自分だけじゃ」と言うので、家康は「それはどういう訳であるか」と問われた。
新左衛門は「大黒天の形は肩をを高く作り、その上に頭巾をかぶっておられる。これは上を見ずして奢(おごり)りの心をおさえ、その本分に安んじる姿である。よくその分を守りさえすれば、幸福は自ら出てくるものである。そこで、その心を大黒天に象(かたど)って、人の教えとしたのであると申します。」と家康は「なるほどそれは面白い、説き方じゃ昔から五字、七字ということがある。五字とは『上をみない』七字とは『身のほどを知れ』と云う事じゃ、この事をよく守りさえすれぱ、幸福に暮らせると云うことでしょう」と、古い歌にも
「上を身な、身の程を知れ人並みにあるべきように時にしたがえ」と云うのがあります。
彼の大黒天の頭巾を被っているのは常に上を見ないためであろうと話された、とあります。
次に新左衛門は秀吉によく可愛がられたが、病重く、もう駄目だと医者より言われたとき秀吉深く惜しまれて、死後の望みは何か無いかと、何でもかなえてやろう遠慮なく申せと言いますと、それでは一つお願いしますと
御威勢で三千世界手に入らば 極楽浄土われにたまわれ
と申したとあります。
2003年 9月号 母を迎えて
極楽寺の父が西方浄土にお還りになって、早十一年。その間、極楽寺の守りを妹夫婦に任せていたが、何分にも母も九十六歳という高齢になり、妹も忙しく暇のない生活で、母を看る時間もない有様でした。見かねて、母を長泉寺の方へ今年二月下旬、迎えました。 それまでは、自分で乳母車を押して、毎日のようにスーパーに弁当を買いにと行っていたのが、長泉寺へ来てから、安心したのか、少しも動かなくなりました。運動しないので、足が弱り、何とかして動かそうととするのですが、一度楽の味を覚えたら元のように動かなくなりました。それで、四月より 或る老人ホームのデイサービスにお世話になり、少しでも気を紛らして楽しくしようと思ったのですが、皆さんと慣れるのに三ヶ月ほどかかり、やっとこの頃喜んでいくようになりました。
その間、お手伝いさんがヘルペスにかかり、一ヶ月ほど休みました。その間、母の食事、洗濯、掃除、花入れ等、朝は四時半から午後七時迄、毎日の労働?に心身共に疲れ、丁度 ビワや梅の収穫、ジャガイモ掘りの時期でしたが、まともに収穫の時間も無く、このままでは完全に身体をこわし、盆まで持つかと思いました。が、今、自分が入院することが、どんな結果になるかと思い、頑張ったのですが、一ヶ月間ほどして、お手伝いさんのヘルペスも治まり、以前のようにお寺に手伝いに来てくれるようになりました。この調子なら寒くなる頃には、体調が元に戻るのではないかと思うようになりました。
人間オギャーと生まれて、人生五十年、普通の人ならアクセク働いてハイ、サヨーナラとこの世を去ったものだが、昔は七十歳、古希と云われた年まで定年を延ばして働きたいという人が多くなった今、人生は八十年となり、七十,八十、九十歳はざらにいる時代となった。
昭和二十年頃は、戦死者や幼年者の死亡率が多く、病気に罹っても医者も薬も無く、ほんとに後進国の生活でした。その頃は、七十歳は古希で五十代、六十代で腰の曲がった人も多く見受けられたものです。社会保障制度も今ほどなく、平均的に貧しい生活の人が多かったのを覚えています。昭和三十年代に私が民生委員をしている頃には、ほんとに困っている人には生活保護を受けるよう指導していましたが、ボーダーラインの方達は、歯を食いしばって生活したものです。
私方の寺は小さく、どうにか寺の維持をしていますが、国民年金、老齢年金を受給しだして、生活の余裕が出来てきました。六十歳からの年金受給者(社会保険は別として)は、平均年齢が高くなり、夫婦で生活すればよいが、配偶者に先立たれて一人になったときは経済的にどうしようと思っている方が多いのではないかと思われます。
家庭に介護者が居るお宅は介護保険料、身の回りのおむつなど雑多なものからデイサービスの費用まで何かと入り用があり、長生きするのも大変だと痛感しています。
母は一ヶ月もすると九十七歳になります。食事は柔らかなものなら、よく食べてくれるし、トイレも今のところ一人で行き、デイサービスにも嫌がらず行ってくれます。食事、健康には毎日気をつけていますが、もしも病気、転倒のことを考えると気の休まる暇がありません。お手伝いさんがよくしてくれていますが、帰られた後、私一人ですので、母が眠るまで気を抜けません。半分ボケの症状が現れだした母を看る、私もいつか、ああなるのだろうか。
2003年 10月号 独り言
時がたつにつれ、あらゆるものの価値、概念が時代の進歩?と共に変化するのは仕方ないと思うが、戦前はその度合いがゆっくりで遅かったと思う。ここ十年くらいは特にめまぐるしく変化しているのには驚くばかりだ。年配の中にはその変化について行けない方も、いるのではないだろうか。
私が幼少の頃は、先ず『躾』。ものの善悪の判断を家庭や学校で厳しく教えられたと思う。自宅や学校での掃除は当然のことであり、目上の方や先生、父親は絶対的な存在であり、それに楯突く事は許されなかった。また、子供が多かったせいか、長男長女は下の子の世話をしたり、下の子がいじめに合った場合などは毅然と立ち向かったものです。その為、弟妹は兄姉を慕い、言うことを良く聞いたものです。戦後教育の第一目標が発言することでした。その代表的なものが授業で発表することが良い子であり。出来る子と思われましたものです。また、外国流に自分が悪くても自分が正しいと反論すること。そんな風潮が定着したように思われます。
小さな事と万引きしても、子供の将来を考えるのかあまり責めません。大人になって、そんな癖が抜けず、恥をさらすこともあるようです。小さい時に『我慢が出来る』トレーニングをしていないと、他人との協調や大人になって自分自身、コントロールが出来ず取り返しのつかない事があるようです。親の共稼ぎで子供にお金を与える事が多くなり、足りなければいかなる手段を講じても手に入れる。たかり、いじめ、ゆすり、万引き、果ては、殺人までに発展してしまいます。
『鉄は熱いうちに打て』です。何事も初めが肝心のように思います。お子さんの可愛い顔や仕草を見ていると、ついつい甘くなりがちですが、十年、二十年先にお子さんが世間で恥をかかないよう大人が物の善悪をしっかり模範を示すことが大切だと思います。子供の目を見てしっかり(自信を持って)と話をすれば通じると思います。
私の子供は二人とも四十路だが寺に帰ってきて朝起きると、孫達三人は一緒に掃除をし、それから本堂と仏間で手を合わせる、帰る時も合掌して帰る。これは皆、上の者がするから一緒にするものと思っている。これも一つの躾だと思う。
父親が弱かろうが母親が強かろうが、家庭を築き、子供を立派な人に育てるのは親だから、親の責任であり、年寄り夫婦との同居なら、尚一層、理想的な家庭が出来ることと思う。子供を伸びのびと自由に育てることと、放任する事とは違うので、お子さんの小さい時にこそ躾で次世代を担う人に育てたいものです。
2003年 11月号 提婆達多(だいばだた)
この方は釈迦族の出でお釈迦さまの従足弟でした。けれども実に悪逆非道、お釈迦さまに三十二相、菩提に三十相、仏は八万の法を知る。提婆は六万の法を知る。仏の背丈(印度の)一丈六尺、提婆は一丈五尺五寸、旧暦十五夜の月と十四夜の月ぐらい、そこで提婆が思う。釈迦さえ居なければ、俺が仏だ!あいつを殺せば俺が一人敬われる。仏を殺す手段を考えた。ある時三十二相の中頂の肉化相と足の裏の千福輪相の型を鍛冶屋で作って赤く焼いて先ず足の裏へ焼き付けた。ところがその型が足の裏に焼き付いて離れない。さあ大変。足は焼け腫れてどうしようも取れない。そこで医者にこれを取ってくれと頼んだところ、医者の言うには「これは取れませぬ、悪い心増上の報いじゃで、我々の治療ではとても取れぬ、これを取ってくれる人は三千世界でお釈迦さま以外にいない」と言う。提婆はいまいましいけれど仕方なくお釈迦さまの前に行き、足を前に放り出し「釈迦これを直せ」と言いたいところだけれど、そうも言えず「直してください」と言った。お慈悲の深いお釈迦さまは足の悪いのは不便なと思われ、光明を放っと、不思議なことに金の型は取れて、元の足に戻ったのである。その時提婆は「瞿曇(ぐどん)沙門坊主を止めて医者になれ」と、(瞿曇沙門とはお釈迦さまのこと)これ程上手に治療を行えるのなら仏を辞めて医者になれと、強情この上ない悪人、いよいよ悪業増上、大地引き裂けて地に落ちる時、提婆は南無阿弥陀仏と称え、その功徳で、無量功の後に天王如来という正覚を取るべしと説かれました。
2003年 12月号 一年を振り返って 今年も早いもので、もう師走です。やすらぎ霊園を寄進して頂いた(株)宏和の宮脇社長からの薦めもあり、長泉寺の御拝(本堂に上がる階段)や門柱より玄関までの庭全体に御影石を敷き詰めました。また、立て付けがおかしくなり、開け閉めが不便になっていた玄関と勝手口もアルミサッシ戸を新調しました。施工に於いていくつかの点に注意し施工をお願いしました。@年配者の行き来が多いので雨天時に滑らない石表面の仕上げ、A簡単に石が割れないための十分な基礎B御拝の階段に一度に多くの人が乗っても問題ない強度のある階段の三点を特にお願いしました。施工は十月一日より十一月十四日までかかりましたが、とても丁寧な仕事をして頂きました。さすがは石工の仕事だと関心する次第でした。また、施工をして頂いた宮脇さんからは灯籠を寄付して頂きました。施工費用総額は約九百万円程になり、費用に関しては長泉寺の方で処理することと致します。
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