寺報 『朱湯山  −抜粋−


  2000年まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、パソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。


平成
19年

2007年
1月 星祭りのご案内 2月 仏陀は実践を重んじた
 3月 春彼岸  4月 ・わらび狩り
・黒白二鼠
 5月 一人四婦  6月 「ミラン」と「那先」の物
 7月 施身聞偈  8月 お盆の話
 9月 「兎王焚身(とおうふんしん)」の物語 10月 「窮鳥懐に入れば鼠師もこれを殺さず」
11月 維摩経 12月 平成一九年を振り返って

平成19年 1月 星祭りのご案内
  皆さま、明けましておめでとうございます。本年も昨年同様よろしくお願い致します。
 当山(長泉寺)は星祭りを旧正月に毎年勤修しています。二月第三日曜正午よりおこう(精進料理)、一時より二十畳繰りの大数珠(一珠に戒名や願い事を彫っています)を百万遍を繰り、本年の星祭り祈願を致します。一年で一番寒い時期ですが、ご本人はもとより、連れ添いやお孫さんなど、ご家族の一年のご多幸をお祈りする上でも、万障繰り合わせお参り下さい。星祭りの申し込みは所定の用紙に・氏名・年齢(数え年)・住所を明記の上お申し込み下さい。法要当日お申し込みの方は午前中にお申し込み下さい。当日は混み合いますのでご協力下さい。
 先祖供養、水子供養など各ご供養も合わせてご供養致します。
 参詣のの皆様には境内裏で取りました、銀杏を差し上げています。
 昨年の星祭りのお札、法事での塔婆などありましたら、八月の精霊流しで、一緒にご供養致しますのでご持参ください。


平成19年 2月 仏陀は実践を重んじた
 先月の四諦、八正道というは、理論を重んじる、上座分の僧侶達の(現在もそうであるように)現在の世論に適述したものと思われ、実際に必要不可欠なものですが、仏陀は如何に実践を重んじられたという事を説明しましょう。「箭喩経(せんゆきょう)」という有名な物語があります。
 かつて、仏陀が舎衛城(しゃえいじょう)の祇園精舎に居られた時のことです。お弟子の中の「鬘童子(まんどうし)」という方がいて、この人は非常に理智に富んだ質の人でありましたから、一人座禅を組んで黙想していて思うには「一体全体この世界は常住なものだろうか、それとも無常だろうか、有限だろうか、無限だろうか。霊魂と肉体は一緒だろうか、別々だろうか、如来は、お亡くなりになる事があるのだろうか。こうゆう問題に世尊は一度もハッキリ説いてくださった事がないので、甚だ物足りないように思う。そこで、これから世尊の元に行き、はっきり問いただしてみねばならぬ。ただし、はっきり解答してくださらぬ時は、教団を脱退を辞さない覚悟だ。」と
 仏陀の所に行き、右の次第を述べ解答を迫りました。すると、仏陀はその無暴をとがめて仰せられるには
釈尊 「鬘童子よ、いつかお前に対し、私の下で修行を励んだならば、こうした問題を解決してやろうと約束した事があるか」といいました。鬘童子はそれに対し。
鬘童子「世尊、そんな事は一向におっしゃいません。」
釈尊 「しからば、何故お前は私に対し、こうした問題に対し解答を与えたならば、私の元で修行に励みますと誓った事があるか」
鬘童子「そう申したこともありません」
釈尊 「しからば、私はお前に約束をした事もなく、また、お前より私に誓うたこともないのに何故、私をみだりにあざむくか」
 鬘童子は仏陀にこうなじられて答えに困り黙って頭をたれてしまいました。そこで仏陀は、多くの弟子達に向かって申されるには
釈尊 「比丘達よ、もし愚かな人が居て私がはっきりこの問題に解答しないならば、修行を止めてしまおうと思うならば、その人はその問題に関わっている間に多分死んだしまうだろう。それは、丁度こうゆうようなものだ。例えばここに、毒矢に当てられて苦しんだ居る人が居ます。知人が寄ってたかって直ちに医者を呼び、その毒矢を抜いてもらおうとした。しかし、その人はなかなかそれに応じようとしない。そして言うには、この矢は誰が射ったのが、どこから射ったのか、木で出来ているのか、竹で出来ているのか、矢じりは?、矢羽の種類は?など、はっきり判らねば、矢を抜いてもらう事は出来ない。と、こうゆう人が居たとすると、なんと愚かな人だろう、そう言っている間に毒矢の毒が全身に回って死んでしまう。要件は極めて切迫している。今我々の現状も同じに何を於いても差し迫った問題である『苦悩の解脱』ということに集中せねばならぬ。四締の道理を見よ、いかにそれが苦悩の解脱に役立つ事だろう。私が常にこれを説くのも全くそれが為である。お前達、この道理をよくわきまえて、いたずらに必要の無い論を戦わすものではない。」と仰せられた。鬘童子を初め多くの比丘達もこの適切な教訓を聞いて大いに会得し喜んで心に思い直す事があったという事です。
 この話は、そのまま現代の私たちへの訓戒と思います。


平成19年 3月 春彼岸
 いつしか寒い冬も終わり、日一日と暖かさが感じられる春彼岸の時期を迎えようとしています。今年は暖冬とはいえ朝五時前に起き、寒風にされされ釣鐘を突くのはやはりつらいものです。今年で三九年間よく毎日続けられたものだと思うのも年のせいかと思うこの頃です。
 昔より、寒さ暑さも彼岸までとはよくいったもので、三月の中、高校入試の終わった頃より生暖かい風が膚に感じられます。「年々歳々人同じからず」と云うけれど梅の花は同じように咲きます。三月一八日に彼岸の入り二一日がお中日、二四日が彼岸結願となります。ご家族で牡丹餅を仏壇に供えお寺やお墓、納骨堂に家族ずれでお参りして、今ある自分に感謝したいものです。このお彼岸の習慣は日本特有のもので、その起源は古く、一説では聖徳太子の頃と云われます。
 もともとこの彼岸とはわれわれ凡夫の生きている、この岸(現世)から涅槃の彼の岸に到る「到彼岸」の事で古代インド語ではパーラミター(波羅密)と言います。このお中日を挟んだ一週間の前後三日間に布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜をあてはめて実践し、お中日には浄土に生まれたご先祖さまを偲ぶ信仰の実践の期とされました。
 浄土宗では、お仏壇に向かって正面に阿弥陀如来像、右側に法然上人さまの師匠にあたる善導大師をお祀りしています。善導大師(唐の人)は太陽が真東から出て真西に沈む春分、秋分の日は「日想観」という行法を行い、その日没の場所を極楽浄土と思って憧れの心を起こすべきであるとお説きになっています。自然の生命が若々しく萌え出ずる春彼岸のこの時期は自然をたたえ、生命をいつくしみ、今日ある自分を育んでくれた数多くのご先祖さまと沢山の我々を助けてくださった方々をしのぶとともに感謝の気持ちで生活をしていきたいものです。


平成19年 4月 わらび狩り
 春になると、たけのこ、ふき、わらび、たらの芽など山菜が店先に並びます。ひと昔前であれば、近くの山や野原で山菜を摘み、春の香りと味を食卓で楽しむ事も多かったのでしょうが今は、『わらび狩り』という言葉さえ聞かなくなりつつあります。
 スーパーに行けば、すぐに食べられる物が何でも手軽に入る時代ですが、たまには近くで取れた山菜をコトコトと煮て、春を味わってみるのもいいのではないでしょうか。

今年もふきやつわがおいしい季節になりました。
いつもお世話になっている村田さんのレシピを左記にご紹介します。
 ・ふきの皮をむく(塩でむくと皮が剥きやすい)
    ・水に半日くらいさらす
    ・下ゆでする(固めに)
    ・ふきに醤油(1合)、砂糖(小5)、酒(カップ0.5)、みりん(少々)
    ・弱火で汁が無くなるまで煮る

本当にいろいろな人のお世話になり、食事を頂いていることを実感します。


黒白二鼠
 二月号で説明しましたように、仏典の中にはたくさんの比喩が使われています。「黒白二鼠」のたとえ話はお釈迦さまが、舎衛国のハシノク王に対して示された人生無常についての深刻な譬喩です。
 ある所に一人の旅人がいました。果てしない広い広い野原に迷っていると、突然獰猛な狂象に出会った。びっくりして急ぎ逃げ、逃げ場を探したがなかなか見つかりません。そのうち一つの空井戸を見出して、これ幸いと中へかくれようとしたところ、ちょうどよいことに一本の藤づるが下の方へ垂れ下がっていたので、それにつかまり中へ入っていきました。狂象は井戸口に恐ろしい牙をむき、うなりたっていました。これで一安心と思って下をみると、井戸口の底には恐ろしい毒蛇が潜んでいて、彼が降りてきたら、一口に呑もうと大口を開けて待っています。旅人は驚いて降りるのをやめ、井戸の側面に足をかけようとすると、四方の側面に一匹ずつ大きな毒蛇がわだかまっており、くれば毒牙でかみつこうとしています。彼の恐れはいかばかりか。今はもう藤づるにすがりお助けを祈るばかりでした。すると、今度は何処からか黒、白二匹の鼠が出て来て、こもごも藤づるの根をかじりだした。さあ大変、つるが切れたらあの恐ろしい毒蛇の口の中へ落ち込まねばならない。どうかして二匹の鼠を排除したいものだと蔓につるされながら、体を左右にもだえさせていると、蔓の根元に蜂の巣があり、蜂蜜が少しこぼれ落ち、五滴ばかりが口の中に入りました。この偶然の蜜のしたたりに、彼は得も言われぬ甘露の美味を感じ、目前の恐ろしい危機をすっかり忘れ、唯、もっと多くの蜂蜜を口の中へ入れようと、必死に努力し始めた。なんと愚かしい極みではないか、と。
 お釈迦様は次のように解釈しています。
 旅人とは迷いの生活をしている我々、狂象に追われるとは無常の迫害に責め立てられること、空井戸とは生死の淵、毒蛇とは死の影、四匹の毒蛇とは我々の身体を構成している四大、即ち地、水、火、風のこと。藤づるとは命の綱、黒白二匹の鼠とは昼夜、五滴の蜂蜜とは五欲即ち眼即ち色、耳即ち声、鼻即ち香、舌即ち味、身即ち触の享楽を喩えたのであります。
 昭和二十年八月十五日、日本は世界を相手に四年間の戦争をし、戦いに敗れ、道徳の失墜は欧米に習うことにより日本古来の美徳のなくなりつつあることは残念でたまりません。


平成19年 5月 一人四婦
 先月号から続きの「一巻雑阿含経」に出ている「一人四婦」の物語が有ります。
これも、非常に有名な比喩で現在では四婦は通用しないが、釈迦の時代から中国二千年くらいまでは良く知られたものでした。
 ある所に四人の妻を持っている人が居ました。その第一の婦人は彼が最も大事にして可愛がっているもので、行(ぎょう)、住(じゅう)、坐(ざ)、臥(が) いかなる場合でも、決して離したこと無く、着物、食事はゆうに及ばず、寒いと言っては労り、暑いと言っては悲しみ、どんなことでも言いなりに任せていました。第二婦人は第一婦人ほどではないが、それでもなかなか可愛がりました。他人と争ってまで手に入れたので、いつも左右に置き一時も姿が見えぬと大変淋しがりました。
 第三の婦人は時々会って楽しむ程度で何か非常に淋しいことや悲しいことを感じる場合にだけ恋い慕う程度でした。 第四の婦人は彼の婦人とは名ばかりで殆ど奴婢(はしため)に等しい仕事をさせ、あらゆる激務にこき使って、優しい言葉ひとつ掛けてあげませんでした。
 こうして、栄華の生活を送っている間は良かったのですが、彼は病気に掛り余命幾ばくもない臨終の時を迎えました。死の恐れ、淋しさがひしひしと身にしみるとき、平生一番可愛がっていた第一の婦人を呼んで「わしはもうすぐ臨終を迎えるが淋しくて成らない、わしと一緒に死んではくれないか」と言いました。第一の婦人の答えは「私はあなたから色々手厚いお世話を受けました。しかし、他のことと違って死の道連れだけはお受けすることは出来ません」ときっぱり断ってしまいました。そこで、第二の婦人を呼んで「おまえはわしと一緒に死んでくれるだろうな」と言うと、彼女は「あなたが一番可愛がっている第一婦人を死のお供にされないのに、何故私がお供できましょうか」と言いました。彼は「おまえを家に入れるのに随分と苦労が有ったのに、わしと一緒に死ねぬとは、どうしたことだ」と言いますと、第二婦人は「それはあなたが勝手に私を求めたまでで、私の方からお願いしたのでは有りません」と、仕方なく彼は第三の婦人を呼んで言いました。「おまえなら わしと一緒に死んでくれるだろうな」と、第三婦人は「私は日頃あなたのご恩を受けていますから、あなたの死を送って、町はづれまでお伴いたします。それ以上はお断りします。」と、仕方なく第四の婦人を呼んで「おまえには平静ちっともかまってやらず、言いにくいが、どうか、わしと一緒に死んでくれないだろうか」と、すると第四婦人はさめざめと泣きながら「私は両親の元を去るときから一心同体の覚悟であなたに仕えております、それ故、苦楽、生死、全てあなたに委せておりますから、何で死のお伴が嫌でしょう。どこまでもお伴いたします。」と・・・・。
 さて、お釈迦様が仰せられるには、「これはひとつの例えです。まず四人の婦人を持っている男とは人間の身体、魂を指します。
 @第一の婦人とは人間の身体を指します。すなわち、人間は身体を一番大切にする、命終わるときは、ただ霊魂のみ、あらゆる罪業を背負って去っていくが、身体は地上に残って、決して伴わないのです。
 A第二の婦人とは金銀財宝を示します。人間は財宝を得る為に随分苦労するもので、中には他人に義理を欠いたり、迷惑を掛けたりしてまで、それを貯めて喜んでします。一朝命終の時には決して持って行くことは出来ない。
 B第三の婦人は父母、妻子、兄弟、友人を指します。彼らは生前お互いに愛し合い、睦み合って実に仲の良いものである。これらの誰かが死ねば、非常に悲しんで、せめて火葬場まで行き、初七日、四九日が無事行って、忘れてしまうのが大切です。
 C第四の婦人は人間の心である。世の中の人、誰一人として心を愛し心を大切にする人は少ない、皆、貪瞋煩悩と暮らし、正法を信ぜないものが如何に多いか、命終の時にはこの心だけが、何処までも霊(たましい)に付きまとい、あらゆる苦悩をなめ尽くさねばなら。愚かな諸々の人々よ、この様に大切な心を守る事をせず。ただ身体の見栄えや財宝の獲得などにのみに時間を費やし、生死の輪廻を続けて行かねばならないとは、誠に哀れの極みである。よって、心こそ誰しも第一に大切に盛り立てて行かねばならない。」とまことに身近な比喩の中に人々の心にある大切な事を巧みに表されています。


平成19年 6月 「ミラン」と「那先」の物
 四月、五月と譬喩経中、もっとも有名な「黒白二鼠」と「一人四婦」の物語を書きましたが、今一つ「ミラン」と「那先(なせん)」の物語に関する経典を挙げましょう。紀元前二世紀の中頃にギリシャの植民地でインド領内の君主として、北印度のシヤガラ城に即位された王で、当時は北印度と西印度に勢力のあった王です。また、那先とは中印度に生まれ、北印度に入ってシヤカラ場内で仏教を盛んに広めた方です。ミラン大王は仏教徒ではなかったが興味を持っていた方でした。この問答を記録したのが「那先比丘経」といいます。 仏滅より三百年あまり後の経とはいうものの、外の経典のように「我是我聞」という言葉はありません。問答の発端は仏教の一つである無我より始まっています。先づ「王より尊者よ、どうして世の中に知られているのですか。してまた、あなたは何というお名前ですか。」もとより王は那先の名前を知っていて、あえてこの問を出されたのです。
 「王よ、私の両親が那先という名を付けたので、世の中の人々に知られています。然しそれは単に世人が認めている呼称ですが、永久に変わらぬ我というようなものが、この名前の中には決して含まれていません。」それについて更に王は尋ねられた。
 「尊者よ、もしあなたの言われるように、永遠不変の我というものがないとすると、すべての道徳も宗教も成り立たないことになりませんか。そうならば自然あなたの教えも空虚なものになってしまうでしょう。もし、そうだとすれば、那先なる者は果たして何者でしょうか。あなたの頭髪が那先ですか。」
 「王よ、私は頭髪が那先だとは思いません。」「しからば体に生えているうぶ毛ですか。」「そうではありません。」「では爪ですか、歯ですか、皮膚、筋肉、骨格、内臓、乃至脂肪、血液等、そのどれが那先ですか。全体が那先ですか。」「どれも違います。」「では、体質、知覚、意志、意識ですか。」「いいえ違います。」「では、これらを全部合わせたものですか。」「そうでもありません。」「それ以外に那先というものがあるのですか。」「それとも違います。こうなってくると、とうとう王は困ってしまい、「もしそうだとすれば、私は那先と言うものを認めることができなくなった。つまり、那先とは単なる音声に過ぎぬのではないですか。今、ここにおられる那先は一体全体何者でしょう。どうも那先のお言葉は真実とは思えませぬ。」と。そこで那先はおもむろに王に向かって申しますには、「陛下はここへ歩いて来られましたか。車で来られましたか。」「私は車で来ました。」「では、お尋ねしますが、いったい車とは何をさしていうのですか。軸ですか。」「いいえ」「では四つの輪ですか。「いいえ」「乗り物ですか」「ではいろいろの部品ですか。」「そうではありません」「では、それら以外に車というものがありますか。」「それとも違います」「では、先程 王が私に言ったように、私には車というものを見いだすことができません。所詮それはむなしい音声ですか。ここは乗ってこられた車とは何でしょう。王のお詞はいつわりではないでしょうか。」と言って周囲の王の従者たちに向かって「諸君、今、王さまは車でここに来られたと仰いましたが、車とは何かの説明ができないのです。そんなことでどうして随喜することができましょうか。」と申しますと、大勢の従者たちは拍手喝采して王に向かい、「陛下よ、ああ言われたからには、どうしてもうまく答弁なさねばなりますまい。」と。
 王は躍起になって「わしは決して嘘は言わない。車とは軸だの輪だの、なんだかだといろいろなものがあるから、それらを全て仮に世人が呼んでいる名前に外ならないのだ。」と。これを聞いて那先は言下に言いました
 「そうです。そのことです。王はよく車の意味をおつかみになりました。で、先程 王が私にお尋ねになったのも、この車の場合と同じです。那先とは仮に私は呼ばれていますから、世間の人々に認められているに外ならないだけです。」と。王は非常に感心して、「ああ、実に奇妙なことだ。私は大変難しい問題を以て尊者をわずらわしたが、あなたはそれを巧みにお答え下さって、見事疑問を氷結したような気がします。もし、仏陀がここにおいでになったら、必ず尊者の応答をお褒めになったことでしょう。実にありがとうございました。」と。


平成19年 7月 施身聞偈
 六月の譬喩喩経はずいぶん味わいに富んだものですが、一層興味 豊かに修養の資として重要なものが、本生経にあるのです。本生経にあるのです。本生とは原語のジャータカを訳した言葉で、もとの生、即ち仏陀釈尊の前出於ける種々の修行の模様を説いたものです。
 言うまでもなく、釈尊は人生無常のはかなさにおののいて、カピラエの王宮を出て、遂にガヤのヒッパラ樹下で無上正覚を成就されたのであり、一般にはその王宮を出られた時が、二十九才、正覚を成就された時が、三十五才といわれてます。「勤苦六年」という詞があるくらい、ずいぶん難行苦行をされましたが、わずか六年で絶対の正覚が成就される筈があろうか、これは現生以前於いて、

幾度も生まれ変わり死に変わって修行された結果によるものに相違ないという考えが仏教徒の胸に浮かんで来たのです。
 「梵網経」中に「往来娑婆八千返」という思想があります。お釈迦さまは生まれ変わり、死に変わって八千返も衆生を教化されたと説いております。この信仰は種々の物語となり、ついには本生経の出現にもなっております。この主人公はいろいろありまして、「菩薩」であったり、「王子」となったり、「動物」となったり、あるいは鳥というように多岐にわたっております。その中で、有名なのが、「施身聞偈」や「投身餓虎」や「兎王梵身」の物語があります。
 先ず、「施身聞偈」について。それは遠い遠い昔の事でした。菩薩は雪山(せっせん)に於いて、専ら大行を修しておられたから、雪山童子と呼ばれていました。また、雪山童子とか、善哉童子とか出てきますが、彼らは求道において、非常に熱心な人を表しています。その時、三十三天の総帥の釈提恒因(須弥山の頂上に住し、梵天王と共に、仏法守護の神といわれる)は信仰の程度を試すため、見るも恐ろしい羅刹、即ち鬼の姿に身を変じて雪山に下り、童子の側により、「諸行無常、是生滅法」即ち諸行は常無し、是れ生滅の法なりと歌った。是は過去の諸仏がお説きになった偈文の中の半分でした。是を聞いた童子は翻然として開悟に目覚め、あたかも闇夜に灯火を認めたように、狂喜の心地がした。
 もともと彼は婆羅門の家に生まれた為、未だ一度も仏陀の教えに接したことがなかった。そこで付近を見回したが、一向それらしい人は居ず、ただ恐ろしい羅刹が居るばかりだったので、「大士よ、この偈は過去諸仏の最も尊い正法とされているものです。今ではただ、外道の雅法のみはびこり、このような有り難い法のあることを聞かないのに、あなた様は何処で是を聞かれたのですか。」と。すると羅刹はさも大儀そうに、「ああ、その事なら、今は尋ねてくれるな。ここ四,五日何も食べていないのだ。あっちこっち食物を尋ねて回ったがちっとも得られないので、苦しまぎれに出したのが今のうたで、別に訳があったのではない」と。「そう言わずに、どうか続きの全部の偈文を教えてください。今のだけでは、意味が完全になっていません。私は半偈を聞いただけでも心から感謝しています。後の半偈を教えてくだされば、私は一生あなたの弟子として仕えますから教えてください。」「お前は大変賢いようだが自分のことしか考えていない。おれは今、ひもじくてそんな偈文どころではないのだ。」「では何を食べたいのですか」「そんな事は聞かぬ方がよい。もし聞いた人間は怖れて震え上がってしまう。」「私の外に誰もいないから、言ってください」「そこまで言うなら話そう。実はおれの食物は人間の生肉だ。そして飲み物は人間の生き血なのだ。おれはまことに徳の少ないもので、食物は人間の血と肉に限られている。ところが人間は沢山いても、皆、福徳を具え、諸天に守られているので、おれの力ではとって食う事ができないのだ。今日はちっとも食物が無くて餓えに泣いている始末だ。」「そうですか。よくわかりました。それでは私の身体を供養しますから、どうか後の半偈を教えてください。私はいつか死ぬ身です。死んだ後は鳥や獣につつかれ、食べられるだけです。それよりもこの身体を捧げて、尊い経を聞いた方が、どれくらい良いか知れません。」「それ程までに言うなら後の半偈を教えよう。童子は羅刹に自分の身につけていた、鹿皮の衣を脱いで法座として、羅刹に進み、「どうかこの座について後の半偈をお説き下さい。」とその前に合掌し一心に拝聞しました。羅刹はやおらその座につき、厳かに半偈を説きました。「生滅々己 寂滅為楽」と。「さあ、全部教えた。約束通りお前の身体をもらわねばならぬ」と、童子は高い木に登りました。樹の神は怪しんで「お前はどうする気だ」「尊い法門を教えてくださったお礼にこの肉体を献供するのだ」というと、樹の神は「僅かな偈文にそれ程の価値があるのか」と。童子は力強く「ありますとも。これこそ、過去現在未来 三世を通じて諸仏の教え給う正しい法です。私はこの正しい法を受け取る為に、全ての衆生を救う為に自分の身体を捧げる事に満足しています。さらば。」というと樹上より身を躍らせて羅刹の食物として自らの命を捧げたのです。ところが何と不思議、未だ地上に落ちない先に、かの羅刹は釈提恒因の元の姿に変わり、童子のからだを抱き取って、静かに地上に下ろしました。そして諸天と共に童子の足下にひれ伏し「ああ、おん身こそ、真の菩薩である。我等を教化済度したまえ。」と。この半偈の為にその身を投じた雪山童子とは実は釈尊の前世である。


平成19年 8月 お盆の話
 「盆と正月の里帰り」など言われるように、お盆は昔から日本人の心に深く根付いた風習、行事ですが、その由来は「盂蘭盆経」と云うお経に出てきます。
 お釈迦様のお弟子は何千人と多くいましたが、特に十人の大弟子の中に「神通力第一」と云われる目連さまがいました。ある日「亡くなったお母様はどうしているのだろう、さぞかし良い世界に生まれたのだろたうと思い」、天上界を見渡しましが居ませんでした。次に人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、と順々に見渡しましたが居ません。最後に地獄の餓鬼へと目を向けるとなんと母は、餓鬼界の世界に落ちて食べ物も水もなく苦しんでいるのです。その様を見た目連様は何はさておき食べ物を盛って差し出しました。母は非常に喜んで手で取って食べようとすると、たちまちに火と化して食べられません。次ぎに水を差し出すとまた火となり何一つ口にすることが出来ませんでした。
 ビックリした目連様はお釈迦様の所にすぐに行き「どうしたらお母様を助け出し、食事と水を飲ませることが出来るだろうか」と相談しました。お釈迦様は「もうすぐ九十日の雨季のために修行(安居(あご))を終えた僧たちが七月十五日に集まり反省会を行うので、その僧侶たちにごちそうをして、心から供養しなさい。」と。また「色々な飲食を盆に乗せて仏や僧や大勢の人たちに供養すれば、その功徳により多くのご先祖が苦しみより救われ、今生きている人も幸福を得ることが出来よう」と説かれました。
 そこで目連様はお釈迦様の言うとおりに、祭壇を設けて食べ物や果物などたくさん飾り、集まった僧侶たちとお経を称えますと、餓鬼界に落ちたお母様や祀っている方たちは餓鬼界より徐々に天上界に上っていきました。それを見た目連様は非常に喜び祭壇のぐるりを回り踊って喜んだので、他の人たちも一緒にこの出来事を喜びいっしょに祭壇の周りを回ったが盆踊りの始まりとされています。皆さんも、お盆にはお墓やお寺などお参りし心より先祖供養をしましょう。


平成19年 9月 「兎王焚身(とおうふんしん)」の物語
 先月号に続いて、捨身施物語で思い出すのが、中学の時に習った国語の中に「兎王焚身(とおうふんしん)」の物語があります。
 昔、鹿野園のほとりに猿と兎と狐が仲良く友を結んで、朝には野山に遊び、夕には林に帰り、かくしつつ年を経ると、久方の天の御門の聞こし召し、それが誠を知らんとて、老夫に化けてよろばい行きて申すには、「我はお前らがたいそう仲良く暮らしていると聞いて、うれしさの余り老体を忘れてここまで訪ねてきたが、非常に空腹を感じているので何か食べ物を見つけてきてくれないか。」と。三匹は三方に散って食べ物を探しに行ったが、狐は一匹きの鮮魚をくわえて来、猿はいろいろな種子や果物を探してきた。然し、兎は何も見つける事ができなく手ぶらで帰ってきました。兎は老人の為に食物を見つけることのできないのを困っていたが、狐と猿に向き合って言うには、「君たち、すまないが枯れ木を集めてきてくれないか。少し考えがあるから。」と。早速枯れ木が集められました。兎は二匹にお礼を言い、それに火をつけ、燃え上がる炎を見ると、老人に向かい「私は実に甲斐性が無く、ご依頼の食物を見つける事ができませんでした。せめて私の身体を焼いて、あなたの食物に供したいと思いますのでどうぞ召し上がってください。」と言い終わるや、燃えさかる火の中に身を投じて焼け死んでしまいました。時に老人は帝釈天の姿を表し、狐と猿に向かい言いますには、「実は私はお前達の菩薩行を知りたいと思ってやってきたのだが、いま兎の誠の精神にはただ感嘆するほかはない。これほど立派な精神を持っているものをむざむざ無に帰する事は残念でならない。そこで彼の姿を月輪に寄せて永く後世に表彰したいと思う。」と。かの兎を月界に送って月の兎としたと言う事です。
 この物語の兎とは、釈尊でインドでは月の事を兎を懐いている物と言われ、これが中国に来て月を表す玉兎の言葉ができ、さらに日本に来て、月の中に兎が住んでいるとか、兎が餅をついているとか言われるようになったものです。


平成19年 10月 「窮鳥懐に入れば鼠師もこれを殺さず」のことわざ
 九月号に続き今ひとつ捨身施の修行に関する物語を記しましょう。
 昔、エンブダイに尸毘王(シビオウ)と云う王様がいらした。ダイバニーイ城と云う所に居られて専ら仁政を施され、国は富み、世は栄え、国民は皆、王を尊敬し、太平を謳歌していました。丁度その頃、天上界では帝釈天(たいしゃくてん)の寿命が尽きようと五衰の兆候が徐々に現れていました。さすが三十三天の総帥と仰がれ威厳を誇っていたが、運命の前には何ともいたしがたく日々を過ごしていました。この様子を近臣の毘首天子と云うのがごらんになり尋ねました。「天王よ。どうしてこの頃そんなに愁いに沈んでいらっしゃいますか」と、答えて、「私は遠からず死なねばなりません、今や仏法はとっくに滅び、菩薩は未だ世に出られず、生死解脱の大事が解決できないのを思うと心配でなりません。」と、毘首天子が言いますには、「それならば今エンブダイに尸毘王と云うのが大変熱心に仏道を求められいてると聞きます。その方にお頼みになったらよろしいでしょう」と、帝釈天は大変喜んで本当に皆の言うことが正しいか、試してみようとすると、
 毘首天子は「あの王様は決して浮ついた方ではありません」と云って止めたが、悪意を持って試すのではなく、実際を見るのだ、と云うので毘首天子は鳩に、帝釈天は鷹となり、下界に飛び立ち、鳩は鷹に追われて尸毘王の脇の下に隠れました。よって、鷹は王に向かって「私はお腹が減っているのでその鳩を食べなくてはなりません。早く私にください。」と。王は、「私は一切のものを救いたいと願いを建てている。だから私に救いを求めてきた鳩をお前に渡すことは出来ない。」鷹は「あなたは一切のものを救うと仰せられましたが、私の食べ物を奪い、私の命を絶つようなことをなさっては、一切のものを救うとは言えないじゃありませんか。」と、王はもっともと思い、「他の肉ではいけないか」と鷹に尋ねると鷹は「私は生の肉でないと食べません」そこで王は考えた末、生の肉というと生き物を殺さねばならない、一方を助ければ一方を殺すことになる、いっそ私の肉を与えようと、刀で自分の股の肉を裂いて鷹に与えたが、鳩の目方ではないと言うので今度は更に肘の肉をそいで与えたが未だ足りないと言う。では全部の肉を与えようとした時、気絶してしまい。ややあって正気に返るや、「無始よりこのかた、この身の為にどれほど苦しんだことか、今こそこの身を全て捧げ福徳を積むのだ」と身体を切り刻もうとしたとき、天地六種振動し、諸天は華を降らし、一斉に賛嘆の叫びを放ちました。鷹と鳩は化身を改め、本来の帝釈天と尸毘王子に戻り、うやうやしく王に申し上げた「大王よあなたは、何のためにこれほどまでに苦行をなさいますか、もしや転輪聖王となって地上に威を振るいたいためですか」王は答えて云うには、「私は少しも世間の栄達を望んでいません、ただ求めるところは仏道あるばかりです。」 帝釈天は更に「王はこれほど苦痛をなめて後悔なさらぬのですか。」王は「決して後悔しません。」「では、その証拠を見せて頂きたいものです。」 王は力強く、「私は毛頭後悔の念はありません、もし、私の求めている通りに仏道が果たせるならば、私の体はきっと元の通りになるでしょう」すると、たちまちにして、傷ついた体は元の通りに完全なもにのになりました。これを見た諸天を始め、居合わせた者はこれを見て賛嘆せぬ者ははいませんでした。
 この時の尸毘王とは、無論お釈迦さまだったのです。この物語は「菩薩本生鬘論」にでています。これと同じものが、巴利語本や梵語本にも出ています。皆さんも「窮鳥懐に入れば鼠師もこれを殺さず」のことわざを思い出すでしょう。これこそ仁愛の極致を示したものです。


平成19年 11月 維摩経@
 ある日、仏陀が毘耶離の菴羅樹園での説法していた時のことです。この都市に「維摩」と云う篤信の居士が住んでいました。彼は極めて清く立派な人格の持ち主で「浄名」と云われていました。彼は仏陀の教えを守り、大乗の奥義をマスターしていたので、智解徳望ともに当時第一と云われた聖者でした。彼には月上という愛娘がおり、若い上に端正で気品を兼ね、添えて市中の若者の憧れの的だったのです。ところが仏陀の、み教えに浴している彼女は、彼らの欲情を諄々と説いて欲想を離れることの尊さを説き聞かせました。彼等は翻然として迷いより覚め、熱心な求道の信者になりました。そこで、多数の青年信者が七宝の天蓋を順次献供して、各自が抱えている問題を仏陀に提出して、その教えを仰ぐことを表しています。仏陀はその天蓋を全部会わせて、一大天蓋とされました。その一大天蓋は、何を表すかというと「各青年が抱いている問題は一様ではないが、その解決の鍵は万人に普遍している。一理であって決して人々によって差別があるものではない。それは何かというと、自己の何たるかを正しく知るという一理で、これが正しく知られたならば全ての問題は、容易に解決」されるという仏意でした。「浄仏国土、成就衆生」または「随其心浄、則仏土浄」の箴言もこの教訓でしょう。(箴言:戒めにとなる言葉)
 前にもでました、維摩居士は仏陀の説法を聞くつもりだったが、折り悪く病にかかり拝聴出来なくなり、仏陀にその由、申しますと、十大弟子の一人の舎利弗にお見舞いに行くよう仰せになりました。ところが舎利弗はかつて維摩にこっぴどく仏教の事で叱られた事があったので、そのことを白状し、その役目は勤まりませんとお断りになりました。他の十大弟子も色々な理由を付けお見舞いに行くことをお断りになりました、最後に文殊菩薩を指名されました。この方は知恵第一と云われる方で、釈迦の仰せをかしこんで遂に維摩を訪問することになりました。いざ訪問をする段になって、色々とお見舞いを断っていた舎利弗を始め外の十大弟子もこれからの、龍虎相戦う様子を見ようと文殊菩薩と一緒に維摩居士の元へいくこととなったのです。


平成19年12月 平成一九年を振り返って
 この一年は世の中の変動や気候の変化も激しく、何を信じて良いのかわからないような年でした。何といっても、日本国の進路を左右する国会が揺れ動いたことがあげられます。また、世の中の不正の何と多いことか。国会議員の不正や普通に過ごしている子供さんが親を殺したり、親が子を殺したりすることが、日常茶飯事になり、戦前では無かったことだと思います。このような時代の中では「阿弥陀経」にある。「五濁悪世の劫濁、見濁、煩脳濁、衆生濁、命濁」を思い、念仏を毎日申す外には無くなった感じがいたします。
 温暖化の関係でしょうか、今年は、本当に暑い夏が長かったのですが、ここにきて急に寒くなり、身体の弱い方などは気候の変化についていけなく急病にかかる人が多いようです、来年も例年通りに、左記に有りますように寺行事を予定しています。まずはご自身の健康に気を付け、ご先祖のご供養と気分転換に寺参りをお願いいたします。
         
平成18年 2006年 寺報 朱湯山 はこちら




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