寺報 『朱湯山』 −抜粋−
2000年まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、パソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。
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2002年 1月号 除夜の鐘と修正会
皆さんご存じの除夜の鐘ですが百八の煩悩をひとつずつ、撞いて消して新正月を新しい気持ちを持って迎えると云うのが、除夜の鐘のいわれです。
皆さんは五戒という詞を聞いたことがあると思います。
@生き物を殺さない
A盗みをしない
B男女間を乱さない
Cウソをつかない
D酒を飲まない
以上が在家の方が守るべき戒めです。
次に、広懺悔文と云うのがあります。この中には諸仏の前に於いて、大菩薩及び一切賢聖、一切天龍、八部法界の衆生の前に於いて懺悔することを書いています。
@殺害・・・一切のものを殺さない
A偸盗・・・人の物を取らない
B邪心・・・よこしまな見解
C妄語欺誑(もうごごおう)・・・うそつきあざむくこと
D綺語調?(きごちょうろう)・・・かざりことば、へつらい、軽蔑など
E悪口罵辱・・・悪口の激しいこと
F誹謗毀呰(ひほうきし)・・・そしる
G両舌斗乱・・・二枚舌で人を仲違いさせ争わせること
その他に十戒、十善戒、二百五十戒、五百戒、菩薩三聚戒、十無盡戒、一切戒、一切威儀戒など沢山の戒があると云うことはそれだけ多くの煩悩があると云うことです。
この事を知って除夜の鐘を撞くことは人生の勉強のひとつと思います。
さて、当寺では十二月三十一日午後十一時半頃より除夜の鐘を撞き始めます。
少し早めに来てお寺で一年の反省をしてはいかがでしょうか?
百八の鐘をつき終わると皆さんと一緒に本堂に於いて新年を寿ぐ修正会の勤行を行います。沢山の参詣お待ちしています。
2002年 3月号 春
春といえば、中学、高校では卒業と入学試験、お寺では春のお彼岸となります。「暑さ、寒さも彼岸まで」と言いますが今年も春彼岸が来ました。墓地、霊園、納骨堂と沢山の人がお参りします。今年は三月十八日が「彼岸の入り」で二十一日が「お中日」、二十四日が「結願」と成ります。
お彼岸には「ぼたもち」「おはぎ」を作って仏壇にお供えします。春は牡丹の花が咲くので「ぼた餅」といい、秋は萩の花が咲くので「おはぎ」と言うのだそうです。ではどうして「ぼた餅」を作って仏様にお供えするように成ったのでしょうか?
現在は飽食の時代といわれますが、戦前や戦後の一時期は白米を食べるのは最高のご馳走だったのです。その白米にもち米を混ぜておいしく炊きあげ、貴重な小豆と、これも貴重な砂糖を混ぜてあんをつくり、中に入れて作った「ぼたもち」はご馳走この上ないものでした。まず仏様にお供えし、隣近所に配って食べていただいてものです。この施し行為を仏教では「布施」といって大事な修行のひとつです。
このぼた餅には色々な名前が付いています。お萩(おはぎ)、牡丹餅(ぼたもち)、すり餅、かい餅、音なし餅、隣知らず、夜舟、奉加帳、半殺し、杵いらず、前転し、三度好しなど色々な呼び名が有ります。
摺って作るのですり餅、お粥を固めたようにみえるのでかい餅、作るときにペッタンペッタンと音がしないので音無餅、音がしないので何時出来たか隣人も知らないので隣り知らず、いつ着いたか判らないので夜船、付いたのも付かぬのも有るから奉加帳、粒のつぶしたものと、つぶれぬものがあるから半殺し、作るのに杵が要らないので杵要らず、前で転がして作るので前転がし、出来たちがおいしく、さめてもおいしく、焼いてもおいしいので三度好し、呼び名は色々有りますが食べてみればみな「ぼたもち」です。
日本でもほんの半世紀前には物のない、食べ物のない時期が有ったことを実体験として知らない人が多くなりましたが、最高のごちそうを何時でも普通に食べることが出来る今の時代に感謝したいものです。
2002年 4月号 芥子粒(けしつぶ)
昔、お釈迦さまの所へ若い女の人が来た。手に赤子を抱きながら、「この子は最早泣かなくなりました。どうかもう一度泣くようにして下さい。」と。お釈迦様は言われました。「そうか、それでは又泣くようにしてあげよう。そのかわり村へ行って、芥子の実を五,六粒もらっておいで。」と。若い女はいそいそと出かけようとしたが、後よりお釈迦様は言われました。「その芥子粒は、おじいさんもおばあさんもだれも死んだことのない家からもらってくるのだよ。」と。若い女の人はうなずいて出ていった。しかし、戸ごとに尋ね廻ったが、どの家も死んだ死んだという答えばかりで、一軒として死人を出さない家はありませんでした。そこで女の人は、世間無常の理を悟り、信仰に入ったそうです。
2002年 5月号 三毒
「貪慾(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)を指して三毒という、毒とは害の義、三は出世の善心を害する故に三毒というなり」
「愚は智の反対語、痴は慧の反、三毒
煩悩の随一なり」
三人の子ども
涅槃経というお経の中には三子の喩と云うのがあって、三子とは三人の子供と云うことです。その三人のうち一人は喧嘩好き、一人は勝負好き、一人は身障者、この三人の中で親の心配は・・・
長男は喧嘩好きで相手が居なくては喧嘩は出来ません。次男はパチンコ、競輪、競馬に競艇好きでもお金が無くてはこれも出来ません。三男だけは親の心配の種、月参りしていても、「この子だけは心配で、子供より先には死ねぬ」と云う方も何人も聞きます。
喧嘩好きとは瞋恚の増長したありさまで、勝負好きとは貪慾の煩悩の勝たれたものの姿、生まれつきの身障者とは愚痴のもので、本願のお目当て、お浄土参りのお正客はこの愚痴の者です。故に唐の善導大師は「我等愚痴の身」といい、法然上人は「愚痴の法然」と仰せられました。
お経の中にも貪、瞋、痴と出てきます。よく考えてお経を称えましょう。
2002年 6月号 長泉寺「第九回おてつぎ信行奉仕団」
知恩院団体参拝無事終了しました。
今年の信行奉仕団は五月二十四日より五月二十七日までで無事全員帰宅いたしました。二十四日午後七時の便で別府国際観光港より大阪南港へ出発しました。
二十五日より総本山知恩院に於いて、「信行奉仕団」の一日研修が始まり、翌く二十六日午前九時に無事終了しました。
結団式には九回の札のついた、長泉寺団旗を藤ミツ子さんが代表で貰いに出ました。又奉仕団員百四十名の代表として、芹川由香さんが、宣誓の詞を皆の前で読み,流石に先生だと皆さん感心していました。
何分約百四十名の研修者ですので研修の一つである「おそうじ」は、阿弥陀堂から集会堂に到る、廊下中を、百四十人の男女が一斉に掃除する様は壮観であり、人海作戦を思い出した。翌朝の解団式各寺の感謝状授与は木村洋司さん、五回、七回表彰状は藤野君子さんが代表で出ました。
その後、長泉寺奉仕団だけで、今年国宝になった三門に開館前の時間でしたが、特別の計らいで三門へ上らせて頂きました。門の上部の本尊はお釈迦様、両脇には羅漢さまが並び、この山門を請け負った夫婦の像も特別にお祭りしてありました。又壁画は麒麟の絵が描かれており、この絵はキリンビールの商標になったとのことでした。
ふつうお寺で「さんもん」とは山門と書きますが、知恩院のは三つの入り口があるので、「三門」と言うのだそうです。
今年は知恩院を後にして、大原方面に寺巡りをしました。三千院、寂光院と法然上人二五霊場の一つである第二十一番札所である天台宗の勝林院です。大原へのお参りで思い出すのは、既に故人となりました桜井さんと、信行奉仕団として一、二、三回、五回と参加され、第五回(平成九年)に大原にご一緒したのが最後になりました。写真を見るたび思い出されます。
2002年 7月号 湯灌(ゆかん)の話 年をとると一年が速いと言いますが、五月の信行奉仕団より帰ったら、もう六月。今年は雨が少ないので日々霊園に水やりに行ったが、それでも春に植えたツツジが四株、這い杉が二株、ライラック一株が枯れたのは残念でした。
やっと雨らしい雨が六月二十日に降り、一休みとあまり読まない本を読んでいたところ、皆さん何度か経験のある湯灌(ゆかん)について書いていましたので、知っている方も、知らない方も一読してください。
辞書によりますと、死体を温湯で洗い清める葬送の儀礼と出ています。
灌とは「そそぎかけて清める」、昔はぬるま湯を入れたタライの中で死体を洗ったので、この名があります。拭くだけのものを「拭き湯灌」といいます。川柳に「人間の一生 たらいからたらいなり」即ち、産湯から湯灌間で、つまりは「人間の一生 ひとつのたらいなり」ということでしょう。
正式の湯灌は納戸とか座敷などで畳をあげ遺体を置き、血縁者がはだか同様の姿にナワ帯タスキがけで洗う。ぬるま湯を作るには水のくみ方、お湯の作り方(水を先に入れて、お湯を後から入れる逆さ水)、お湯の捨て方、遺体の洗い方など特別の作法がある。然し近頃では防腐、防臭のため、遺体をアルコールか熱湯で拭き清め、ついでに汚物が出ないように鼻、耳、肛門などに脱脂綿を詰めるだけというのが多くなっている。
湯灌は死体のけがれを洗うだけでなく、その霊魂をも清めるという「浄化」の意味があり、正月、産湯などの慣習とあわせて考えるべきだと言われている。湯灌はもともと血縁者の役割だったのが、死のけがれを恐れ嫌うあまり、後には特定の者に処置してもらっているうちに、葬祭関係者に任せるようになり形式的なものになった。「すまぬこと母の湯灌は寺でする」貧乏人や道楽で家をつぶした人は自宅で湯灌ができないので、寺の湯灌場ですませ土葬にしました。
2002年 8月号 盂蘭盆経(うらぼんきょう) 「盆と正月の里帰り」など云われるように、お盆は昔から日本人の心に深く根付いた風習、行事で、その由来は「盂蘭盆経」という経によります。
それによると、お釈迦さまの十大弟子の一人で「神通第一」と云われた目連尊者が、ある日、亡くなったお母様は今何処にいられるかと神通力を使って見ると、なんと餓鬼の世界に落ち苦しんでいました。
骨と皮ばかりに痩せ、お腹だけ大きくなっています。
目連尊者はご飯を鉢についで食べてもらおうと差し出すと火に変わり食べられません。
水を差しても同じく火と化してしまいました。
びっくりした目連尊者は、お釈迦さまの所へ行き、どうしたらお母さまを救えるか相談しますと お釈迦さまは、「九十日間の雨季の修行(夏安居)を終えた僧たちが七月十五日に集まるので、皆さんにお願いしお母さまをお祭りし、皆さんで供養すれば、その功徳によって餓鬼の苦しみから救われ、また今生きている人々も幸福を得ることができよう」とお説きになり、その通りにしますと、お母さまは餓鬼の世界より天上の世界へ上って行きました。 これを見た皆さんは、その祭壇の廻りを喜び躍ったとのことです。
これが盆踊りの原型となったとされています。
お盆にはお墓参りをし、気持ちよく、精霊をお迎えしましょう。
2002年 9月号 お盆が終って 「暑」
今年の夏は近年にない猛暑の連続で夏バテした人が多いようです。お盆の棚経参りは大変でした。つくづく考えるに、皆さんの好意によりいろいろ異なった飲み物が出されますので、つい沢山飲むとお腹がゆるくなります。お坊さんには胃腸の強い人がよいようです。
又、一日に何軒も檀家廻りをし、お経を唱える(称える)ので、声がかれます。それでなくても喉が弱いのに沢山お参りしますので声が出なくなります。
お経を読んでいて考えました。
南無宝勝如来 →福徳円満になりますように、
南無妙色身如来 →すがたかたちの相好が円満でありますように
南無甘露王如来 →心身共に快楽になりますように
南無広博身如来 →喉が広大で何でも沢山食べられますように
南無離怖畏如来 → どんな恐怖もありませんように
などを希求するのですが、
私はもう一つ南無美声王如来と云うのを付け加えてくれると良いと考えました。
浄土宗のお経はお念仏が中心でいろいろ普遍して、念仏の申し方、作法等ありますが、お盆のお経はまず始めにも人ありて三世一切の仏を知りたいならば・・・全て唯心が作るものだと説いております。
お経の最後にこのお経を唱えると、一切の餓鬼(私達も同じようなもの)罪料(とが)消滅し、苦を離れ、楽を得、発心して修行して臨終に際しては佛を見、極楽往生しますとあります。
一度皆さんも、施餓鬼の本を読んで見るといろいろと為になると思います。
2002年 10月号 霊は平生、どこに居られるのでしょうか?
こんな質問が電子メール(インターネット)でありました。
盆になると先祖の霊をお迎えし、また、送ると云われますが、そうなると、霊はお墓やお仏壇、お位牌、または、あの世とやらを行ったり来たりすることになり、何かと忙しそうで落ち着きがない感じがします。霊は平生何処に居られるのでしょうか?
若い方達は疑問に思われる方が多いのではないのでしょうか?
「浄土三部経」の一つ「仏説阿弥陀経」に阿弥陀さまは『ここを去ること十万億の仏土を過ぎで世界あり名付けて極楽と言う。その土に仏在し、阿弥陀と名付け奉る』とありますので、亡くなり、お葬式をすませると、極楽に往生します。私達はその往生の印としてお位牌に入魂し、お仏壇にお祀りし、早く覚者、即ち成仏して、現世に還り苦に悩む人々を一人でも多くお救いするようにと、修行を手助けの為に御供養するのです。
では、霊は平生何処に居られるのでしょうか?
普段、霊は極楽お浄土にいらっしゃるだろうし、また、仏壇の中のお位牌にも、納骨堂やお墓の中にも居られるのではないでしょうか。
晨朝礼讃偈の中に『莫謂西方遠、唯須十念心』と云う一句があります。
「極楽西方お浄土は遠い所と云いなさんな、ただ十念する心の中にあるんだ」と解釈しています。
戦死などで遺骨のない方でも、御家族や妻子がお参りすることにより、個々人の心の内に亡くなった人々の面影をしのんでいるからではないでしょうか。
もう秋季彼岸も過ぎますが。昔の方達は彼岸のお中日は、真東に日が入り真西に日が沈むので真西に極楽浄土があると考え、一心に西方を拝んだものです。
宗教とは信を以て能入と云うように信ずる事が第一条件だと云っています。
お盆になると先祖の霊を迎えたり、送ったりしますが、住んでいる所により、習慣も違うようです。調べるとおもしろい発見があるかもしれません。
2002年 11月号 知足の生活
長泉寺御拝の前に「吾唯足るを知る」の手洗鉢が在ります。
お釈迦さまが亡くなる。即ち入涅槃の時に、近くに居たお弟子さん、その他多くの人々に残した言葉、「仏遺教経」というのがあります。
その中に、『汝ら比丘、若し諸々の苦悩を脱せんと欲せばまさに、知足の法を観ずべし、知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり、知足の人は地上に臥すといえども、なお安楽なりとす。不知足の者は天堂に処すといえども、また意にかなわず。不知のの者は富むといえどもしかも貧し、知足の人は貧しといえどもしかも富めり、不知足の者は常に、五欲の為に牽(ひ)かれて知足の者の為に憐憫(れんびん)せらる。是を知足と名づく。』とおっしゃられた。
物事には限度と云うものがあります。
戦前戦中の者は食べ物が貧しかったので、少しの物で満足していた。しかし、今日、飽食の時代のせいか、胃腸その他、良い薬ができたにもかかわらず、病院へ足を運び、入院する人の何と多いことか。
衣、食、住どれ一つとっても一つ満足すれば、その上またその上と、欲望とは限りなく続きます。悪いとは云いません。一つの進歩ですから。しかし、それによって欲望の達成はありえないのです。私は今、自分の欲求、欲望を一日の生活の中に生かすため、十年先を考え、毎日を規則正しく生活しているつもりです。
先ず、午前四時四十分起床、犬の散歩、本堂、納骨堂、お内佛の茶湯を下げ、五時半までにお湯を沸かし、あげます。午前五時半、大鐘をつき、本堂、納骨堂、お内仏で朝の勤行を行い、朝食を、できれば七時までに終わらせ、大体七時半頃よりお月忌に出ることが毎日の日課です。
午前中に寺務が終われば、午後は建物の修理、ペンキ塗り、セメント練り、大工仕事など、また暇をみてお墓の掃除、やすらぎ霊園の草取り、花植え(これは十年計画ですので先を楽しみにしています。)と忙しく毎日を過ごしています。
寺の住職とは、お寺の管理人と心掛けております。この寺は小寺ですが一日一日を満足し、心ゆくまで身体を動かして、病気にならないようにお釈迦さまの仏遺教経に少しでも沿いたいと心掛けています。そのためか、ここ三十年、毎日を健康に過ごさせて頂いているのも、仏のご加護をと喜んでお念仏をしています。
2002年 12月号 一年を振り返って
毎年のことながら、楽しく健康で一家過ごされたご家庭は、良い年だったと思われるでしょうが、病気、事故、死亡などのあったご家庭では、良くない年だったと思われることでしょう。なんといっても、一生は塞翁が馬。良いことばかりがあるじゃなし、その後には悪いことがあると心得て、日頃から身体の運動と食事に気をつけて一日も長く健康でありたいと思った年でした。
今年は、年回のない月忌が昼間で終わったときは、「やすらぎ霊園」で草と石を取り除き、きや花を植える予定でしたが、半分もできませんでした。しかし、今年も元気でありがたい年でした。
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