寺報 『朱湯山  −抜粋−


  2000年まで、住職がガリバンで寺報を作成しておりましたが、パソコンでの作成に変更したのを機に内容を抜粋し掲載します。

平成
16年

2004年
1月 新年あけましておめでとうございます 2月 ・福は内、鬼は内
「法難」 住蓮と安楽 
 3月 五十三人の盗賊
四国へ流された時のこと
 3月 法然上人の御見識
薬湯のお喜び
 5月 精進波羅密  6月 ・鈴虫、松虫の発心
お坊さんとお寺の住職
 7月 周梨般特(シュリハンドク)羅漢、 またの名を周梨般陀伽羅漢  8月 施餓鬼会 阿難尊者の故事から
 9月 ・お盆を顧みて
王舎城結集まで
11月 釈迦入滅後の教典完成までの道のり
 ・仏説編纂事業着手
 ・会場
12月 一年を振り返って 12月  ・教典の暗唱と記録
 ・階級差別と優婆離

平成16年 1月号  新年あけましておめでとうございます
 本年もよろしくお願い申し上げます。日本中の寺院では修正会も終わり、二,三日はゆっくり出来るはずですが、寒い時期なのでお寺は何時、寺務が入ってくるかわかりません。
 浄土宗では正月は二十五日、浄土宗を開いた法然上人のお亡くなりになった祥月命日です。この日を御忌(ぎょき)といいます。法然上人の祥月命日だけの呼び名です。総本山知恩院では仏教大学の学生や東山高校生徒や多数の信者さん達が法要に参拝します。しかし、何分寒い時期ですので、四月十七日から二十五日に開催時期を変更し、盛大に法要が営まれています。
 浄土宗の開祖法然上人は、現在の岡山県、美作(みまさか)の国、南条稲岡の人です。父を漆間(うるま)の時国、母は秦氏(はたうじ)と呼び、長承二年四月に生まれました。専修念仏の一門を開いて、朝野と共にその盛徳に帰依しました。建暦二年正月二十五日遷化、寿八十歳、元禄十年正月に円光大師の 号を賜ってより、五十年毎に大師号を、時の天皇より賜り、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師と七つの大師号を賜っております。法然上人は、どんな動機で出家、得道されたのでしょうか。法然上人の幼名を勢至丸を申します。九歳の春、父時国が明石の源内武者、定明の夜襲に遭い、多勢に無勢、深傷を負います。その時、母と共に竹藪の中に隠れていました。勢至丸がいつも使っていた小弓で馬上の大将と思われる武士を射ましたところ、大将の眉間に当たりましたので、その痛みに耐えかね引き上げる途中、小川で血を洗ったところ、そこに住む魚に片目の魚が出来たと言う話もあります。勢至丸は母と共に館に戻ると、父、時国は重傷を負い、虫の息の中で「汝、定明を敵と思うて討つでない。お前が定明を討てばその子は又お前を討つであろう。その繰り返しをしてはならぬ。それより僧となり、仏教に帰依し、私の菩提を弔い後世を頼む。」と遺言して終わられました。これが元祖法然上人御出家の動機となったのです。
 その時、勢至丸は幼心にも父の遺言を忘れず、ついに母方の菩提寺の観覚上人の元に出家しました。それより六年後の十五歳の時(久安五年)、もっともっと仏教の勉強がしたいと、観覚上人に伴われて比叡山に登り、西塔、持宝坊源光上人の弟子となられました。その後、功徳院皇円阿闍梨(アジャリ)に師事し、大いに天台宗の教義を学び、十八歳にして比叡山を下り、黒谷の慈眼坊叡空上人の門を叩き、そこで上人より、法然坊源空の号を得られたのです。
 上人はこれより、唯法恩蔵に入って一切経を三度読み返し、出離生死の安心(アンジン)が得られなかったので、叡空上人の所を辞しました。そして、嵯峨の清涼寺、奈良興福寺の蔵俊上人より法相宗を学び、京都醍醐寺の寛雅上人より三論宗の奥義を習得し、仁和寺の慶雅上人より真言の法、中川寺の実範から離解脱の為には何の解無く、法然上人は再び叡空上人のもとに帰り法恩蔵の人となり一切経を読むこと五度、かくして四十三歳まで一心に勉学に励んだのです。たまたま源信僧都の「往生要集」を読んで、大慈の光明に接し、唐の善導大師の散善義の『一心専念弥陀名号行住座臥不問時節久遠念々不捨者是名正定之業順彼仏願故』の文に至り、たちどころに修行を止め、他力の本願に帰依され、この時、浄土宗は法然上人の胸中に開かれ、その後日本国中にお念仏の声が聞こえるようになりました。法然上人に共感し、弟子と成った者として、天皇、上皇を始め女官や藤原兼実(関白)や武士に在っては熊谷直実、平野忠慶、耳四郎のような泥棒や遊女などまでも阿弥陀さまの本願を信じ念仏を称えるという、驚天動地の大々的布教活動が開かれたのです。


平成16年 2月号 福は内 鬼は内
 今年も節分、豆蒔(ま)きをする季節が近づいてまいりました。
 世間には節分に「福を内 鬼は外」と勇ましく声高らかに豆蒔きをする習慣がありますが、そもそも、この豆蒔きは追儺(ついなん)と云い、昔中国から伝わったもので、我が国では王朝時代頃より行われていたようです。ところが この豆蒔きの唱え方に変わった唱え方をする家があります。代々家例として、「福は内、鬼は内」と唱えていた家があったようです。元来、豆蒔きは形式であるため、いくら「鬼は外、福は内」と部屋中に豆を蒔きながら大きな声を出しても、それで私たちの幸福が得られるのでしょうか?これに反し「福は内 鬼は内」と反対のとなえ方をしても、必ずしも不幸を招くと決まったわけではないのです。もちろん、「福は内 鬼は内」の方がかえって私たちの心の状態に近いのかも知れません。私たちの幸、不幸は決して外界から来るのでなく、私たちの周囲や境遇をいくら順調にしても心の持ちようをしっかりしていないと、幸福を受け止める事は難しいのではないでしょうか。実は鬼も福もひとり一人の心の中にあるもので、節分は私たちの心の中を振り返る、よい機会なのではないでしょうか。


「法難」 住蓮と安楽
 住蓮、安楽の二人とも法然上人のお弟子で声がよくて器量が良くハンサムで、都の女性の憧れの的といった人だった。二人の行く所には貴族の女性達が公務をそっちのけで二人のお説教を聞き、お念仏を称えたため、朝廷の逆鱗に触れこの二人を処刑するお達しが出された。
 住蓮は東大寺の維那実遍という人の子、安楽は外記入道師秀の息子で、共に承元の法難に遭い、京都の六条河原で死刑になっています。時は承元元年二月のことでした。共に堅固な念仏称名の信念の持ち主で、一身を犠牲にしても毫も恨むことがなかったと言われています。辞世の歌に

住蓮は
 このごろの かくし念仏あらわれて 弥陀の浄土へ からめとらるる
安楽は
 極楽へ 参らんことの嬉しさに 身をば仏にまかせするかな

 安楽は六条河原を刑場と定められ、刑吏永井左右衛門という人が、刃を振り上げた時、安楽は手をあげ、「しばらくお待ち下され、とてもなき命なら一時片時の猶予を与え給え、我が信ずる弥陀の本願を称える念仏の法門功徳殊勝にしてその利益(ヤク)むなしからざれば、今や、何ぞ幾分の奇瑞を現ぜざらん、見物の諸人、縁なき者は是非に及ばず、いやしくも縁ある信者は、これを見、之を聞いて念仏を相続して、勇ましく共に浄土の往生待つべきなり。」といいつつ、土壇の上に上がり、両手を合わせて数珠をかけ、南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ・・・、さて嬉しさに勿体なや、西方池中七宝の台、我が身の本国親里は十万億土の西方にて本師の阿弥陀如来が待ちたまう、さてもうれしや勿体なや、念仏称えし罪により今が最後の臨終なりと、日没礼賛を称えられる所が、奇なるか、妙なるかな、空中にズーッと紫雲がたなびき、その雲がきりきりと舞い降り、安楽の頭上にありて正しく、その様は天蓋の如く、群衆の人々あきれ驚いている。その時安楽坊の申さるるさまは「念仏数百遍の後、最後に十念称うるを待って、首切るべし切られて後に合掌乱れず、からだ右の方に倒れたなら、めでたく西方浄土へ往生とげられたと知るべし」と声高らかに念仏百遍、最後の十念を合図にバッサリ首をはねられた。ところが不思議なことに、申されたように合掌乱れず、手を合わせながら身体は右の方へ倒れたため、見物の諸人は、思わず御法度を忘れて、異口同音に「南無阿弥陀仏・・・」と称えない者はなかったという。
 次に住蓮は佐々木九郎吉実に仰せつけられ、紀州馬淵西の岡という所で死刑にされます。この時の誓いとして、「自分の信心、西方往生が間違いなければ、処刑で切られて後、首無き胴は念珠を繰り、胴無き首は十念を満足するでしょう。また、首と胴との間より、必ず光明輝き、青き蓮華を生ずるであろう。」と誓いを立てました。処刑場で役人により首をはねられると、首と胴と切り口よりパッと光明が輝き青き蓮華、清浄潔白な香気が一面に立ち上ったとあります。
切られた首は空中に上がり声張り上げ「南無阿弥陀仏々々・・」と十念を称え、首無き胴は数珠をさらさらと押しもんで止まらず、処刑の現場に居た衆生らは「ああ・・めでたき往生かな」と異口同音に念仏の声はしばし止まなかったとあります。
 現在では「住蓮、安楽之墓」として江州馬渕に共に埋葬されています。


平成16年 3月号 五十三人の盗賊
 法然上人の御流罪の時、御庵室に五十三人の盗賊が入り、寺宝を全て盗み取って行った。上人は盗人の後をつけて伏見の稲荷神社の境内まで後をつけていった。盗人は境内で宝物を山分けしている最中だった。その場へ法然上人はお弟子と行かれ、「お前達はこの度私の庵来られ色々と大事な物を持って行かれたが、一番大切な宝を持っていかなかったので、わざわざ知らせに来た。」と仰せられたので、盗人たちは肝をつぶし、世間では取られた品を取り戻そうと公儀や役所へ訴え出るのに、法然上人は大切なお宝の取り残しがあるからわざわざ持ってきたとは、理解に苦しむので「しからば取り残しの宝とは何か?」と尋ねると、法然上人の返答は「その方達の取った宝はこの世娑婆五十年の宝、死んでは持っていけない。取り残した宝とは無上大利の宝にして、鬼が仏になるゆわれ、南無阿弥陀仏の六字である」と一言仰せられて、お帰りになった。その後に五十三人の盗賊共首を揃えて相談したところが、「この世娑婆は短し、未来は長し、長い未来を短い娑婆に変えられようがない」と云う結論になり、持ってきた宝を法然上人の御庵室に返し、五十三の盗人は髪を切り出家し、遂に法然上人のお弟子となりました。


四国へ流された時のこと
 前号での住蓮、安楽の法難に続いて、師僧法然上人は四国へ流罪になりました。讃岐国に御逗留中、お弟子方のすすめで松山の景色を見ることになり、舟一艘を浮かべ、景色を眺めている最中にお弟子さん方と歌をよみ興を催されたのか法然上人も一首よみました。
如何にして われ極楽に生まれまし
弥陀の誓いのなき世なりせば
この意味は、「どうして私のような、こんな者が極楽へ参られようか。万一弥陀の本願が世に無かったならば、と裏面から明かして、今の本願に遇い奉って極楽参りの出来ない私達が浄土へ参るとはこんな幸せがあるだろうか」と、お喜びを述べられた。お弟子方のおっしゃるには「眼前の景色、山水の様相などをお詠みになると思っていたのに、藪から棒に、このような御詠歌を詠まれたのはどうしてでしょうか?」と申し上げると、上人は「さればのことよ、舟に乗って風、波はよし、云うにいわれぬ景色の面白さ、目を慰め、心をなぐさめるに、そぞろに如来さまのお慈悲が思い出されて、このように詠んだのです」と仰せされたとあります。


法然上人の御見識
 法然上人御臨終の時に当たり、お弟子方の申し上げられるには「私達は全く法然上人の御化導により、聖道門をのがれて、浄土門に入り、自力を捨て、他力に帰した事でありますが、但し、あなた一代御建立のお寺も無し、また御開闢(かいびゃく)の地も無し、今にも世を去られたら何を頼みにしてお慈悲を喜ぶことが出来ましょうか。昔の名僧、知識と云われる上人には皆建立の寺や古跡があります。先づ聖徳太子には四天王寺や伝教大師には比叡山、弘法大師には高野山、亡くなられた後まで、その旧跡や寺院を拝んで喜びますが、御師匠さまには何もなく、心残りです。」と申し上げた。法然上人のお答えには、「私達が建立した寺だとか、これが旧跡だと云うよりも、山の果てから、海のなぎさ、日本中念仏の声のする所が法然の旧跡であり、開闢(かいびゃく)の地である」と仰せられた。何とありがたいことではありませんか、念仏の声する所は埴生の小屋でも、菩薩の御旧跡
  こいしくば南無阿弥陀仏をとなうべし
   我も六字のうちにこそすめ
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・と相続が出来れば、そこが即ち上人の足跡です。


薬湯のお喜び
 法然上人、御流罪の砌(みぎり)三月二十六日讃岐国に舟で御着きになり、塩飽(しわく)の地頭駿河権守の屋敷にお入りになり。これより前先の関白月輪殿より、よくよくご馳走されるようにとの御教書が来ていましたので、上を下へと騒ぎ立て、心を尽くして接待申し上げましたが、翌日薬湯を立て、法然上人を浴室へお誘いし、地頭、直接浴室へ参り「浴の御加減は如何でしょうか?」と尋ねたところ
 極楽も かくやあるらん あらたのし
   南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ とお答えなされた。


平成16年 5月 精進波羅密
 そもそもこの行(念仏をとなえること)を捨てて、いずれの行に赴くべきか、智慧なければ聖教(聖道門とも云い、修行により覚りを開く教え)を信じ行っても眼を開くことむつかしく、財宝がなければいくら布施の行をしようとしても、その力無し、昔、波羅奈国(ハラナ国)に一人の太子がおられた。世上では大施太子(だいせたいし)と申していました。貧しい人を哀れんで蔵を開いて沢山の宝を民に与えた。しかし、宝は尽きてしまったが貧しい人は尽きなかった。
 太子は、海の中に如意宝珠という玉があると聞いた事があり、海に行き、求めて貧しい人々に宝を与えようと誓いを立て、竜宮に行きました。竜王は驚き且つ怪しんで「この方は並の人ではない」と言って、自ら出迎え、宝を床に据え「遙か遠方よりはるばるこの竜宮へ来られた志、何かお求めなさることでもありますか。」と、お聞きなさると、太子のおっしゃるには、「閻浮提(えんぶだい・・・人間の住む世界)の人は、貧しくて苦しむことが多い、王の髻(もとどり)の中の宝珠を乞い頂きたいために来ました」と云えば、王様の云われるには「それならば七日の間、ここに止まりて我が供養を受け給え、その後に宝をさしあげましょう」という。七日たって太子は宝珠を得ることが出来ました。そこで竜神太子を本国の岸まで送ってあげた。
 諸々の竜神、嘆いて「この宝珠は海中の宝なり。取り返してください。」と。そこで海神、人に変身し、太子の御前に云っていうには、「あなたは誠にまれなる珠を得られたというが、私に見せてください。」と。太子がこの珠をお見せすると、奪い取りて海の中に入ってしまった。太子は嘆き悲しんで誓っておっしゃるには「海神よ、若し珠を返さなければ海の水を汲み干してしまいますよ。」という。海神、海より出てきて笑って云うには「お前さんはもっとも愚かなる人かな。空の日を落とすことも出来よう、速き瀬をせき止めることも出来よう。しかし海の水を汲み干すことはできませんよ。という。太子のおっしゃるには「恩愛の絆も断ち難をも止めんと思う。生死の尽くし難きをも尚尽くさんと思う。いわんや海の水、多しというとも限り有り。若しこの世に汲み尽くさずば何年かかっても必ず汲み尽くそう」と誓いて、貝の殻をとって海の水を汲み出した。誓いの心まことなる故に、沢山の天人、悉く降りてきて、天の羽衣の袖に包み、鉄囲山(てっちせん)の外に汲んで置く、太子が一度二度と貝の殻を持って汲んだところ、海の水は八分方、無くなった。竜王、海水がなくなったので騒ぎて「我が住処がなくなる」と詫びて宝珠を返した。太子はこれを持って都に帰り沢山の宝を降らして閻浮提の家に宝を降らさない所がなかった。いかなる苦しみをも凌んで不退転ならばこれを精進波羅密というとあります。
 昔の太子は如何なる苦しみをも凌いで竜王の如意、宝珠を得たが、私達は弥陀の本願という宝珠を得ました。


平成16年 6月 鈴虫、松虫の発心 
 以前の寺報に出ていました、住蓮・安楽ですが、少し詳しく調べてみました。
 鈴虫、松虫は二人とも絶世の美女で、後鳥羽天皇の宮廷の女性、天皇の寵愛を受けた方たちでした。一人は十七歳、もう一人は十九歳の若い盛りでした。
 法然上人が清水寺で出家、功徳経の御講釈をしていらっしゃる時、都の老若男女が、清水寺へ、清水寺へと御講釈を聴きに行かれるのを見て、何事かと皆について行きました。そこで聞いたお話の内容のわかりやすいのに遁世(世間をさけて仏門に入ること)の念が起こり、念仏三昧する身となり、お浄土往生が肝要であると思っていたところ、その時機が来たのでしょう。ある時、後鳥羽上皇が熊野権現へ参詣の留守中に鈴虫、松虫の二人は東山鹿ヶ谷の精舎(知恩院)へ参詣し、住蓮、安楽の両僧が六時礼讃別時念仏の勤行をされるのを拝見しました。その姿は、尊いやらありがたいやら、声はよし、威儀作法よし、信仰を肝に銘じ,随喜の涙にむせびかえられました。そのようなことの後、鈴虫と松虫は、宮廷内にあって密かに語りあい、夜の間に抜け出して、剃髪出家しようと心に定めると、早々両人は御殿を抜け出て、鹿ヶ谷精舎の門を叩き、住蓮、安楽の両僧に願いのほどを申しました。両僧はしばらく思案して、「汝の願いは神妙だが、宮廷御所にお勤めの大切なる身分、御上の思い召し計り難く、我々の計りでは出家は許し難い。」と言葉を尽くしてさとされたが、両女の申すには「是非とも志願の儀、お許しなければ、私たち世に生きる甲斐がないほどに水に身を投じて死にます。さらば御免。」と座を立とうとした。住蓮、安楽は仕方なく、たとえ後難が起こるにせよ、みすみす彼女らを死なせては、仏の慈悲に背くのではなかろうかと、遂に出家を許し、住蓮は剃刀を取り出し、「流転三界中 恩愛不能断 棄思入無為 真実報恩者」と四句の偈文を唱えつつ、緑の黒髪を剃り落とした。二人は錦の着物を脱ぎ捨てて麻の衣になり、尼法師の姿となったのです。二人の局は大いに喜び、これでこそかねてからの望みを遂げました、と一礼して立ち去り、その後、紀州の粉川寺の山内に一つの草庵を結び、念仏三昧に余念無く、めでたく往生の素懐を遂げられました。

お坊さんとお寺の住職
 当寺はホームページを出していますが、たまにお坊さんになりたいがどうしたらよいかとの問い合わせがあります。つい先日も高校を出てすぐの方で、自宅は真宗だが、当長泉寺でお坊さんになりたいとの連絡がありました。お坊さんになるにはまず、得度という儀式があります。白衣、黒衣、白足袋、帯、数珠など一通りお坊さんになるための一式が入用になります。お袈裟は得度式の時お渡しします。その後、僧籍登録を行い,その時お坊さんらしく名前を二文字にします。一文字や三文字の方は、二文字の漢字に改名届けを出張所や役場に出し、準禁治産者でないという身分証明書をつけて、知恩院に書類を提出して、初めてお坊さんとして認めてもらえます。その後、得度をしたお寺でお経を教えてもらい、まず、掃除と月忌参りと座る稽古から始めます。この形をとる坊さんを、番僧さんといいます。
 では住職になるにはどうするかというと、仏教大学(浄土宗が作った大学)または大正大学で四年間学び卒業するか、短期大学か、四年生大学を卒業後に別にもう一年間仏教大学か大正大学で浄土宗の僧侶としての資格をとるか、または、通信教育を受けて資格を取るかなどの方法があります。そして、卒業時には、知恩院か増上寺で約一ヶ月の行を勤めて、初めて僧侶としての資格を取得できます。
 僧籍登録し、坊さんと呼ばれる人は、お寺の助手→助教師→教師となります。また資格としては律師→少僧都→僧都→大僧都→僧正となります。私はこの三月二十五日に僧正に任ぜられました。
 これで思い出すのが、徒然草に出てくる、良覚僧正といわれた人です。大変怒りっぽい人で、その住居のそばに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれていました。僧正はそのあだ名が適当でないといって、榎木を切ってしまった。ところがその切り杭が残っていたので、人々はさらに「きりくいの僧正」と名付けた。僧正はますます腹を立てて、その切り杭を掘り起こし捨てさせました。が、その後が大きな堀のようだったので、今度は「堀池の僧正」とあだ名が付いたという話を思い出し、一人 笑いました。
 僧正の僧階は総本山知恩院、または増上寺で浄土宗の管長といわれる人より一人ずつ僧階任命書を渡されるものですが、私は”貧乏暇なし”で任命式に出席できず、この度、額と共に任命書を送ってもらいました。僧正ともなれば、あまり品行を壊すような行為はできなくなったと、心に誓ったものです。


平成16年 7月 周梨般特(シュリハンドク)羅漢、またの名を周梨般陀伽羅漢
 周梨般特はお釈迦様の弟子の中で一と云うて二とない愚鈍な人で自分の名前さえ覚えられず、たまにあなたの名前は何かと聞いても返答しかねるので、お釈迦様は周梨般特と云う名札を迷い子の様に胸に提げさせておかれた。そこで、名前は何かと聞かれたら名札を出して見せました。
 仏教では毎日托鉢をして歩くので、衣が破れます。また、裸足で歩くので傷をしたり、病気になったりするので、一夏九十日間は托鉢はせず、衣の修理をしたり傷の手当をしたり、お経の稽古をしたりします。このことを夏安居(げあんご)といいます。
 お釈迦様の弟子の五百羅漢の中でお経をまだ覚えていない人に、今日は舎利仏、明日は迦葉(かしょう)と云うふうに交代で先生となりお経を教えてくれます。例えば阿弥陀経だと、【如是我聞一時仏在】までを一日で覚え、次の日には続きの【舎衛国・・・】と九十日間でお経を覚えます。ところが、周梨般特は一日がかりで「如是我聞一時仏在」と反復練習して覚えても、翌日には覚えていないので、また初めから覚えるのですが、九十日間が経過しても一字一句覚えられなかった。
 周梨般特の兄が先に出家しており、あまりにも弟の覚えが悪いで、他のお弟子さん方へきがねして、周梨般特の手をとり門前に連れて行き、「所詮お前は仏道修行はできない。他のお弟子さんに迷惑をかけるので、帰って還俗(お坊さんでない俗人に返ること)しなさい」と叱った。その時、周梨般特は「兄の叱るのも無理は無い。私のために僧団の方々に迷惑をおかけしているのは申し訳ない。前世の因縁だろうか、されど今さら家に帰って、夏安居九十日間お経を習ったが、少しも覚えることができなかったので、我が家に帰れない。しかし、出家先から追い出され、帰るに帰れず所詮生きてはおれない、死のうと思っても死にきれず、仏世には値難く、仏法は聞き難いのに、たまたまお釈迦様の御在世に生まれ合わせ、お弟子にしていただいたのに、一字一句の法門もわきまえず死んでしまったら、未来永劫三悪道に沈み、浮かぶときもあるまいに。」と思い、死ぬに死にかねて、五体を大地に投げ伏して、無き悲しんでいるとき、ちょうどその時、他より帰りあわされた。
 お釈迦様が「周梨般特よ、なぜにそのように泣き悲しんでいるのか。」とお尋ねになられた。周梨般特は、「九十日お経を教えていただいたが、一字一句覚えられません。それ故に兄に追い出され親の元に帰って、還俗せよと言われても、今さら家に帰れません。死のうと覚悟はしましたが、仏在世に生まれながら、むなしく死んでは未来永劫三途に沈んで浮かぶ時節もあるまいと思い、死ぬに死にかねてこのように泣いているのです。」と申し上げたので、お釈迦様は不憫に思し召して、「もっともなことじゃ。家に帰るには及ばぬ。まあ、こちらへ来なさい。」と百福荘厳のお手を伸ばされ、周梨般特の手を引き、門内にお入りなされた。「お前は物覚えがあまりにも悪いが、当分の間、庭の掃除をしたがよかろう。」と箒(ほうき)をとってお渡しなされた。「口を守り、意を摂し、身を犯さずんば是の如きの行者、世を得度す。」とたったこれだけの経文を教えられた。この経文の心を思うて掃除せよと仰せられた。お釈迦様の力により、周梨般特はその経文が覚えられ、精を出して毎日毎日掃除をしておりましたところ、忽然と思案が出て、「このおびただしいごみも箒で掃けばきれいになる。煩悩は塵のごとく智慧は箒のごとく、智慧の箒を持って掃けば、いかなる煩悩とて断除できないことはない。」と思案するうち、廓然(かくねん)として夜が明けたように阿羅漢の悟りが開かれた。わずかの経文を覚えたばかりに、知恵第一の舎利仏や神通第一の目蓮尊者等と肩を並べて十大弟子の一人として、阿弥陀経の会座に連なっているのであります。


平成16年 8月 施餓鬼会 阿難尊者の故事から
 施餓鬼の法会は釈尊の十大弟子で「多聞第一」と云われた阿難尊者に由来します。いつも釈尊に従って教化の旅を続けておられたので教典の中に阿難に語る形で説法されたものが多くあります。
 施餓鬼の起こりは「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経」に仏弟子の阿難がある夜ひとり座禅を組んでいると夜中に口より火を吹く餓鬼が現れて「お前の命は三日限りで終わり餓鬼の中に生まれるであろう」と告げたので阿難は恐れおののき、釈尊に助けを求めたのです。その時説かれたのが先の教典にまとめられています。
 地獄におちた餓鬼を救う為に陀羅尼という呪文を唱えなさい。
 五如来をお祭りしなさい。
一、宝勝如来...餓鬼のむさぼりの心
二、妙色身如来・・・餓鬼の醜い姿
三、甘露王如来・・・餓鬼の水を飲んでも焔になってしまう恐ろしい業
四、広博身如来・・・餓鬼の食事が喉を通らないこと
五、離怖畏如来・・・身に迫ってくる恐ろしいこと 
 この五如来は必ずや餓鬼のこのような責め苦を除いて救ってくれます。餓鬼を救いたいという願いは尊いことです。その功徳は無量です。そしてその功徳を三界万霊すなわち過去、現在、未来のすべての霊、すなわち知っている人、知らない人の区別無く、供養することが大切です。そうすれば不思議に、人の持つ、醜さ、浅ましさ頑固さは消えて、豊かな心を持つことができるというものです。
 釈尊のこのような説法を聞いた阿難は抱いた恐怖心は消え、醜い焔口餓鬼が美しく生まれ変わっていくことを五如来に祈ったことでしょう。また自分の命が三日しかないところを三界万霊を供養することにより、永遠の命を持ったことでしょう。昔から大施餓会に参拝すると長生きができるといわれているのは、この阿難の故事によるものです。
 大施餓鬼会に参詣して、自分に受ける功徳すなわち、回向をご先祖、新亡の霊なりにふりむけて塔婆回向することこそ意義の深いものです。
 お盆の話やお施餓鬼の話に出てくる、祭壇の作り方はほとんど同じで、読むお経も五如来が中心になっているところを見ると、人間の身、口、意の責め苦より逃げたい人間の欲望の解決法のように思えてなりません。


平成16年 9月 お盆を顧みて
 初盆のご家庭の方には、淋しいお盆でございました。今年は例年になく暑い日が続き、体調を壊した方もたくさんいらっしゃたでしょう。十七日頃までは各地区の盆踊りなどの法要があり、休む暇がなく疲れました。私もいまだ年のせいか本調子になりません。お年寄りの方は、気候の変わり目に注意してください。十五日の精霊流しは天候不順で前日夜中より雨が降り、当日の朝も心配したのですが、夜には風もなく海もベタ凪ぎでしたので、沢山の方が船に乗り、お見送りされました。
 今年は初盆や希望者の精霊舟が十五隻申し込みがありました。例年になく沢山の方が乗船し、お見送りされる方が多かったので、もう一艘チャーターして希望者全員に乗船して頂き、お見送りしました。海も静かで船酔いもなく、皆さん心より精霊を流し、お盆が終わったと心より喜んだことだと思います。この精霊流しも長く続くことを願っております

王舎城結集(けつじゅう)まで
 お釈迦様が入滅されて、阿難尊者以外に沢山の比丘(びく)、比丘尼たちはクシナゲラの都で、枕辺にはべり悲しんでいました。その頃、仏教教団中、第一の長老といわれたマカ迦葉(かしょう)尊者は、多くの弟子を率いて、教化のため地方巡回されている最中でしたが、その先々でお釈迦様の御脳の噂が段々重くなられるとの消息ばかり聞きました。もはや一刻の猶予もできないとクシナガラの近くに来たとき、向こうより一人の婆羅門が手にマンダラ華の一茎を持ってくるのに会い、お釈迦様の御容体を尋ねられたところ、すでに入滅されて七日ほど経過しているとのことした。このマンダラ華の花は、大聖と言われる方の生誕、入滅の時にのみ開く奇草といわれてましたので、その花を見たとき、一同はお釈迦様のすでに入滅されたことを察したのでした。しかし、かくもはっきりとお釈迦様が入滅されたことを告げられた以上、一同驚きと同時に、悲嘆の叫びが口々にほとばしり出たのです。
 「ああ、世間の明眼はもはや再び帰り給わぬのか。」
 「どうして世尊は我々をおいてかくも早く亡くなられたのだろう。」
 「明日より我々は何を拠り所として生きていけばよいのだろうか。」
 「何といういう痛ましい、無常迅速の悲しみだろう。」
と、泣く者、叫ぶ者、わめく者皆一様に悲哀の涙にかき雲らされぬ者はありませんでした。
 ところが中に一人、スバッダという遅れて出家した者が居て、皆悲嘆にくれている人々の前に出て言うには、
 「諸君、悲しみ給うな。我々は自由を得たのだ。世尊が生きているときには、種々厳格な戒律をもうけて、我々のためしたいと思うことでも是を制し、したくないことでもこれを強い、圧迫、拘束至らざるはないというありようで、まことに耐え難い窮屈を憶えていたが、今こそその窮屈さから解放され、いかなる勝手な振る舞いをしたからとて、少しも束縛されることなく、きわめて自由となったではないか。」
と、少しでも恥じることなく叫んだのでした。彼は仏教教団に入って日も浅く、入団前の長い放縦生活が厳正な教団の戒律生活に耐えられず、かく暴言を吐いたのでした。
マカ迦葉尊者はこの暴言を聞いて、いかに驚いたことでしょう。お釈迦様の教団はその比類なき尊きご人格のもとに、きわめて健全に統一され、皆素朴な信念を持ち、仏説を奉戴する者のみの集合体と思っていたが、なんとしたことだろう、かかる有様をなおざりにして顧みなかったならば、さしも尊い正しい法、正しい律もその影をひそめて段々と非法非律に堕してしまうのではないかと心配されました。速やかに正法、正律を制定して、確固たる仏説の統一を図らねばならぬと考えたのです。
 そこでこのように考えたマカ迦葉は、急ぎクシナゲラにおもむき、嘆き悲しんでいる、比丘、比丘尼たちを指揮して、いとも懇ろに仏陀の葬儀を行い、その終わるのを待って、沢山の仏弟子たちと計り、教団全部の同意を得て、仏説編纂に着手したのでした。


平成16年 11月 釈迦入滅後の教典完成までの道のり
@仏説編纂事業着手
 一度仏説編纂の決議が成立すると、それに当たる議員の選定をするため各地に布告して広く学徳高い比丘、比丘尼を集めることにしました。元々仏弟子たちは各地に散在して正法の布教を熱心にしていました。インドは広大な土地です。この布告も人づてに広がったのですが、遠方に居る人々にとって集まることは容易ではなく、各地の弟子たちは如何なる障害をも乗り越え四方より続々と集まりました。この現象は何れも唯正法護持の念に満ちあふれたものでした。それらの比丘、比丘尼の中より学解勝れた方たちを選定し、四方四百九十九名となり、その方たちを以て事に当たる事としました。
 当時、阿難尊者(施餓鬼の中心人物)は、未だ学地にあって他の弟子達のように仏道を成しておらず、むろん悟りも開いていませんでした。元来この方は天性まれな美男で、また心根の優しい事は、実に仏教教団比丘中第一と云われました程でしたから、慈悲温厚の気品と相まって国中の若い姉女子の恋の対象となっいてたのです。従って、甘い歓楽の誘惑を受けたことも一再、止まらなかったと思われます。教典の中にはそれらの種々の消息をいとも艶やかに記されていて綿々と尽きぬ情史を展開しています。こうした女難の数々につれて自身の修行の妨げとなり、同じ弟子達と共に歩調を揃えて悟りに進むことが出来なかったのです。
 そこで、今この仏説を編纂しょうとするに当たって、仏道未熟の彼はもとより上座の比丘衆に伍してその事業にあずかることは望めなかったのであります。しかし彼は二十五年という久しい間、常に仏陀の左右に付き添い、その金口(こんく)の説教を聞き覚えることが、他の弟子の比丘方よりも最も多く又、何度も聞いたことでもあり、又温厚な資性が、今この事業に参企するにあたり得た人と自然に他の比丘衆より思われ、参加の推薦を受けることとなりました。もとより長老の迦葉(かしょう)尊者に異論はなく直ちに彼を加えて五百人の議員となりました。

A会場
 このように、議員が決定しましたので、次は会場の選考になりました。これについて種々の提案が成されたのですが、なるべく静かな所と、多くの比丘の日常の生活に便利な所との二条件を考えて、結局、摩掲陀(マカダ)国の首都王舎城の町外れの小高い丘に決定しました。当時摩掲陀国の君主は阿闍世王と云う人で、この人はかつて「浄土三部経」のひとつ「観無量寿経」の中に説かれているような痛ましい家庭悲劇を起こした人です。
 それはまだ、王の若い頃皇太子時代の出来事です。血気にはやる太子は早く王の位が欲しかったので提婆達多(ダイバダッタ)と結託して、父君の頻婆沙羅(ビナバシャラ)王を牢獄に押し込め、その王をかばう母君葦提希(イダイケ)夫人をも殺そうとした、誠に暴虐極まりない若者でした。しかしながら、親子の愛情はこのすさんだ暴君の心に微かながら悔悟をもたらし、引いては仏門に身を踏み入れるに及び、仏陀の人格は、よくこの暴君極まりない罪深い王を諄々と感化していったものでした。それより王は熱心なる仏教信者、否得護者として、慈悲温情を傾けて余生を送られたのです。
 今空前の一大事業として結集が開始されようとしている時、王として何で黙止出来ましょうか。そこで、早速に、その事業に要する会場を建築し提案する由、申し出たのです。それより、夜を日に次いで急ぎ、工事は竣工し王舎城外の丘の中腹に宏壮な殿堂がそそり立ちました。こうして、会場もすでに出来、今やその準備が全て整いましたので、古参の五名の議員がそこに集まり、いよいよ、その事業を開始することとなりました。実にこれ仏滅より四ヶ月目に当たり、インドの歴で云えば雨期二月第二日(旧暦六月十七日)の事でした。


平成16年 12月 一年を振り返って
  平成一六年は大変な年だったと思います。台風の日本上陸回数の多いことと水害、その上地震が重なり、九州では米や野菜などの出来が悪くあちこちで、これでもか、これでもかと日本中が被害を受けたことは、近年少なかったことと思います。これが奈良や平安時代なら人的被害も無論の事、家庭、作物など物流の手だてはなく大変だったと思います。また、朝廷に於いては早々に会議を開き占い師を呼び、何かの祟りだと云うことになり、年号を改める所でしょう。
 政治情勢に目を向けますと、アメリカ一辺倒の総理はイラクへの救援の名目のもと自衛隊を派遣し、国内では一律介護保険料をアップし、老人の生活を脅かし、結果として生活保護者を増やしている。少しは景気は良くなっている様だがフリータや、仕事をする意志のない人を増やしている政治は、どうも日本が悪い方向に進んでいるように思えてならない。私の一年は正月元日と二日しか休みが無いが、これも自分で選んだ道だと思えば腹は立たない。仕事をしないで親の金を宛にして生活している若者を見ると、自分に子どもが出来、親が逝った後は?その時になって慌てるのだろう。自分の将来を想像出来ない若者が何と多いことか。

釈迦入滅後の教典完成までの道のり
B教典の暗唱と記録
この仏説編纂の事を「結集(けっじゅう)」といいます。結集とは原語「オンギーテニィ」の訳名で合誦または等誦と云うことを意味し、音楽で云うコーラス、即ち大勢いっしょに合唱する事に当たります。そこで、どういう方法で実施するかというと、この結集に加わっている議員の中で、選ばれた一人が、その他の議員の問いに応じて答えます。例えば「お釈迦様は、いつ、どこで、どの様なお話をされましたか?」と問い、
 議員は「どこで、誰々にこのようなお話をされました。その時には何人くらいの人が集まっていました。」と答えます。その答えに、一人でも異議が有ればその話は成立しません。
 一人も異議が無ければ全員でこれを合唱し、暗唱し、反復し全員が記憶します。この形で長い間、各地に散っていた布教するのに釈迦の言動を皆に伝え布教していったのです。 では、当時文字が無かったかと云えば決してそんなことはなく、文字があった事は仏陀のお亡くなりになり、荼毘に附して舎利に納めた瓶壺(骨壺)の側面に記されている字によっても解ります。仏陀がお亡くなりになると、荼毘に附して、近親者達は仏陀の遺骨を分けて立派な瓶壺に収め奉安したのです。一八九八年英国人のクラックストンと云う人によってピプラーブと云う所で発掘され、その瓶壺の側面に古代インド文字で、「この世尊仏陀の舎利瓶は釈種同胞が信念を捧げて、その姉妹妻子と共に奉祀するところなり」と云う意味の文字が発見されています。
 では、何故文字が在ったにもかかわらず、仏説編纂に当たり少しも文字が使用されなかったのか?尊い教法を文字などの形態をもって表現することは、教法の神聖を冒涜するとと考えたからでしょう。この点、日本においても、私の記憶では小学校の時に習った日本上代の未だ文字が無かったと思われる時代に、口伝によって伝承していたのが、奈良時代に至って博覧強記をもって聞こえた稗田阿礼の誦出する所を太安麻呂が初めて文字に記録した「古事記」と幾分似ている様にも思われます。古代インドではたとえ文字が有っても仏説を神聖視する事により文字に記録されることは無かったのです。これは必ずしも仏説のみならず、美術の面に於いても仏像を描くにも、誕生仏は蓮華をを以てし、成道の仏を描くには菩提樹を以てし、涅槃仏は塔を以て現すと云うようでした。仏そのものを表現するのではなく、仏に因んだものを象徴として暗示したのでした。
さておき、インド民族は古代より暗唱することを得意としたので「吠陀(ベーダ)」と云う婆羅門の経書を暗記したものです。長いものは十万章有ると云われていますが、婆羅門の教徒達は全部暗唱すると云われています。

C階級差別と優婆離
 結集の大会議はいよいよ開始されました。先ず議長として長老迦葉尊者(かしょうそんじゃ)を選んだことは云うまでもありません。そこで迦葉尊者は優婆離(うばり)と云う人を指名し律を誦出させました。
 この優婆離と云う人は釈迦のカピエラの町の理髪業を営んでいた職人でした。ところが当時は階級思想の厳重なインドにあっては、理髪業の如き一般には甚だ下賤な職業と見なされ迫害を受ていました。たまたまお釈迦様が成道後初めて郷里に父の浄飯(じょうぼん)王を見舞われた時のことでした。王を初め親族一同はもとより、高位高官貴族の方々はじめ世尊の比類なき崇高な人格にうたれて我々もとあたかも草木の風になびくように帰依し、続々出家するという有様でした。そこで誰よりも先ず驚き怪訝に思ったのが、理髪をする人たちでした。「何ということだろう、この頃剃髪する人の多いことか、しかも揃いもそろって高位高官貴族の人たちとは」と行き会う人に聞いていましたが、事情を知った人が云うには、
@今お釈迦様が郷里のカピエラの城に帰られていること。Aその人格を慕って王侯貴族が先を争って入門出家していることの次第を話されました。次にこの教団は決して階級の差別がないこと、極めて平等の集合体であること。そこで今まで階級概念にしいたげられていた優婆離にとって、いかに有り難いことだったでしょう。そこで早々出家して仏教教団に身を投じたのでした。





平成
15年

2003年
1月 正月二十五日は御忌です 2月 涅槃会
 4月 お寺の住職も管理人  5月 影の微笑
 6月 すすめ  7月 五字七字の戒め
 9月 母を迎えて 10月 独り言
11月 提婆達多 12月 一年を振り返って

平成
14年

2002年
1月 除夜の鐘と修正会 3月
4月 芥子粒(けしつぶ) 5月 三毒
6月 おてつぎ信行奉仕団 7月 湯灌(ゆかん)の話
8月 盂蘭盆経 9月 お盆が終って 「暑」
10月 霊は平生、どこに? 11月 知足の生活
12月 一年を振り返って

平成
13年

2001年
1月 除夜の鐘と修正会 2月 先々代住職 五十回忌供養
3月 春季彼岸 菩提の種を蒔く 3月 信仰の機織(はたお)り
5月 浄土宗 壇信徒信条 6月 水子地蔵さまの『お室』製作について
7月 おせがきの由来 8月 お盆の話
9月 お彼岸の成り立ち 11月 第八回 おてつぎ奉仕団に参加して
12月 一年を振り返って



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