寒行に生きる    


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・地図 3.開拓者 7.病室にて 11.消えゆく日々の中で
4.ミミズの煮汁 8.イチジクの頃 12.あとがき

  先代住職が急逝し、朱湯山長泉寺の第十三代目住職として、父が寺務を引き継ぐこととなったのは、わたしの高校二年の春、昭和二十七年の頃ででもあったろうか。
 別府市亀川町の中から、温泉集落「鉄輪」の町へ通ずる県道を上がっていくと、血の池地獄と龍巻地獄の観光地帯に出る。これらに挟まれた山の麓にそれは建っていた。草庵が世を避けひっそりとたたずむ孤窓ならば、当寺は板張りの節の穴から月光を迎えるあばら屋の本堂で、草庵にも及ばない哀れをとどめた孤高の中にあった。心は世の塵芥に向けながらも、その存在感が世人に認められず、ただ良い歴史を唯一の牙城として、月日のみが無為に流れたといった風情であった。
 『八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり』 (恵慶法師「拾遺集」)
 が、この寺からうけたわたしの第一印象であった。
 秋風は裏山の松葉を散らし、冬は沸き出る清水を凍らせ、春は谷間の段々畑にすみれが咲きにおい、夏の暑熱は蝉の大合唱がかまびすしく、まさしく自然の移り変わりが、この野田・御手洗の集落近辺には鮮明に生きていた。
 この長泉寺は人皇七十代・御冷泉天皇の祈願所として建立された。本来は名刹である。
 その略縁起に日く
 『そもそも当山本尊薬師如来の縁起を案ずるに、辱くも尊像は仁聞菩薩の御直作にして、今を去ること九百五拾六年の昔、寛徳二乙酉の歳、人皇第六拾九代後朱雀院の御宇皇太子、親仁 親王重き病に罹らせ給ひ、天下の名医耆婆扁の妙術を盡すも、已にかいなく見え給ひければ、至上の御悲みは申すも畏し、万民慟哭し、如何しても御命を留め奉らんと、神仏に祈り給ひける程に、一夜夢むらく異様の僧顕はれ告て能日く。今太子の尊體の御悩み給ふは宿業の致す所なり。我は是れ豊後の国竃門の庄に跡を垂るる薬師なり、吾垂跡の地に一の霊泉あり、 清き事類なし、此の霊泉に浴し我名を呼び玉へ、御み立所に癒えさせ給ふべしと慈言し給ふ。
 親王いたく之を異なりとし直に下向ましましてず血の池に至り御手をすすぎ給ふ(故に此の一帯を御手洗と称す)。それより親王山峡に進ませ玉ひ、側にありし岩石を御枕に柴を敷き御湯に入り給ひけり(今尚跡あり其の岩石を枕石と呼ぶ)。不思議や七日七夜湯浴給ふ程に、御病洗ふが如く平癒し給へり。皇子御感喜斜ならず、深く随喜偈仰の涙に咽び給ひしとぞ、程もなく御還の日と成らせられ御心を後に名残らせ給ひ、無明、長夜も豊の海波音播唐幾夜明石もはや過ぎて、つつがなく都御殿に入り給ふ。かくして太子は御位に即き給ふ畏くも第七十代後冷泉天皇におわします。帝勅願所として宇留島俊久藤原貞久の両人に命じ、百済様式の七宝伽藍を柴石一本杉の地所に建立し、血の池の因により、朱湯山と称し。時の年号を意味て寛徳院と号し。 又湯泉常にたたへて絶る事なければとて寺をば、長泉寺と名づけ給ひ。西国唯一の巨刹とし、又日本三薬師の一として、食封墾田五百町歩施入寄進あらせられ永く垂跡の地として崇め給ふ。然るに天正年間大友氏の乱に伽藍宝物皆灰燼に帰せしも、薬師如来の尊像のみは不思議哉火災を遁れ免れ給ひしかば、里人之を守りて姫山に小々やかなる草堂を創立し。安置し、いつぎかしずき奉る。其後数十年の星霜は流れ貞亨の頃恒松家に白勇上人ありて、薬師如来に帰依深かりけるが、或日野田字八十浪に長者あり榎木の大樹に登れる猿を射らんとす。猿腹をさすり助けを乞ふ程に主人怒りて容れず、終に射落したるが其夜夢視僧あり告て日く、我は姫山に住む薬師なり。汝慈悲の心なし、汝の一家猿のたたりにて滅亡すべし、早々菩提心を起さば此難逃れ得んと、主人さめて悟る。白勇上人にはかりて、霊彿薬師如来我地に安置し、併せて我家の冥福、及び猿面観王菩薩を弔う為め、祠を立て八十浪一帯を寄進せんものと云々。
 上人即ち自ら四方に勧進して遂に堂宇を建立し如来を遷し奉りけり。其後三十三年目毎に開扉供養為し給ふとなり。後崇譽上人昆譽上人共に再建ありて荘厳なりしに、惜哉維新の際に当たり、破損甚しく、殊に廃佛棄却の論四方に興り。遂に殿堂を壊て買却し。残材を以て小宇を造り、僅に寺号を遺存す。
 明治四十二年照譽上人八十浪に仮本堂を柴石に説教所を改築せしに基き、覚譽和尚寺門発展の為、舊跡地(血の池地獄御手洗の史蹟)に移転を為す。殊に柴石温泉は別府八景の一称にして、男女瑠璃光の瀧は、温泉第一の称あり。本尊薬師如来は仁聞菩薩の、一刀三礼の作にして、特に女人を守護し給ふ。乳なき者には與救なし給ふ秘佛にして霊験不可思議なりにして、特に女人を守護し給ふ。乳なき者には與救なし給ふ秘佛にして霊験不可思議なり。
 世に之を乳薬師と呼ぶ乳出ざる時丹精を込めて祈願する者には願のままに乳を授け給ふ等古今の奇瑞悉記する。ここにいささか大海の一滴を示すのみ、鳴呼まことに崇哉。是れ偏に衆病悉除身心安楽の誓願空からざる如来の不思議あり。仰ぐべし信ずべし』。
                       長泉寺住職    芹川 昭教

 国東仏教文化圏のコアとなっている富貴寺の多くの仏像は国宝であり、これらは平安仏師《仁聞》の彫作である。当長泉寺の本尊薬師如来は、これも同じ《仁聞》の作とされている。
 尊貴な寺宝本尊であるがゆえに三十三年に一度しか開扉されず、その法要は門前市をなしたと記録されている。しかし、三十三年に一度の開扉法要は、かえって仏像の管理を放置する結果となり、父の受け継いだときには、無惨にも木造は虫に喰い荒らされ、《仁聞》の銘は木屑となって判別不能となってしまっていた。せめてもの仏像を評価したものとして、別府市の『重要文化財第一号・木造佛薬師如来像』が平安仏像の面影をとどめているのみである。
 本堂庫裏は大友宗麟の乱に焼き討ちされ、明治の排彿毀釈運動のあおりをうけてここでもまた焼き討ちに合い、不遇をかこっていた。ただどのような運命にもてあそばれようとも、奇跡的にお室に菊のご紋章をいただいた本尊薬師如来像は火災の被害を常に免がれ、そのご利益は甚大であったとされている。
 住職に就任以来の父の自尊心は、人より早く起床し、念仏を多称することであった。念佛三昧、これが父の信仰理念であり、それがやがて人を動かし、寺院の隆盛につながることを確信していた。そして幾つかの例外を除いて、その思いは事実となったといえるのではあるまいか。
 父は当時の自宅である別府の専念寺(現在の極楽寺)との兼務住職として多忙な生活ではあったが、いかなる日であれ、毎夜、必ず自転車で長泉寺へ帰っていった。そして早暁の念仏となるのである。同辺は昼間は観光客で雑踏するが、朝は木々の梢を吹き抜ける風のざわめきを聞くのみであり、人家も離れて点在するだけであって、暁のしじまを破って聞こえる木魚の音は、幸にも、だれに遠慮することもなく、むしろ寺院の活気ある活動として説得力があったのである。
 そして、閑居する日は、三百坪余の寺の荒れた地を拓き、種をまき晴耕に専心するのであった。
生家の農家の血と勤勉な性癖が、時間を無為に過ごすことを許さなかったに違いない。そんな生活を父はよく人に自慢した。生きがいであったのかもしれない。
 しかし、寺の管理運営は必ずしも順調にいったわけではなかった。
 最大の障壁は、檀家総代とのせめぎあいにあった。
 この寺は記録的焼き討ちにあうたびに疲弊し、檀家信徒は去っていったらしい。伽藍の補修再建のたびに寺の財産は四散し、田は農地改革のあおりをうけて寺領を離れ、父の代には血の池地獄に隣接したわずかな土地と野田の山間に残った百坪余りの墓地を残すのみとなっていた。
 しかも、本堂庫裏はほこんど、バラックに近いもので、外観はは仏教を伝導する聖地のおもかげなど皆無であった。
 庫裏は二間しかなく、その上、壁の赤土は落ち、窓は傾き、隙間からは風雪が遠慮なく吹き込んできた。まさに蓬生の宿の風情そのものである。
 本堂の屋根は杉皮で葺かれ、天井を走る梁が屋恨の骨格を無惨にさらし、壁はバス板で四辺を囲み、内装の壁はなく、よって節穴は夜空の星群にも似た覗き窓をつくり、冬は暖房の効果をさえぎり、風が室内をわがもの顔に冷ややかに通りすぎていった。
 問題は屋根であった。葺かれた杉皮は年月を重ねる中で、陽射しに焼け、風雪にめくれ、鹿の子まだら模様となり、木の性を失い老いさらばえていった。雨の降るたびに、急ぎ置く雨水受けの器は二十四坪の本堂内に曼陀羅を形づくり、その奏でる妙なる天楽に憂いで心を曇らせ、畳は水を吸い、障子はしみをつくった。土台まで腐った畳は悪臭をはなち、床板を侵し、幾度踏みつけた畳とともに地面の奈落まで落ちたことか。本堂の半分近くは畳をはがし、法要の度に上敷を求めて、なんとかその場をつくろっていた。
 長泉寺・薬師佛は、その縁起にあるように、また乳薬師佛として近隣のみならず県下同辺に膾炙(かいしゃ)していた。
 乳の出ない母親の祈願者は多く、その霊験はまさに不可思議で、必ず乳がさずけられたのである。その喜びは母からその娘へと語り継がれていった。
 わたしも寺に寄宿中、幾度か祈願読経をしたことがあったが、読経中、祈願者は本堂内をほうきで掃き清める慣わしであった。わたしは畳を掃く音を慙愧(ざんき)の思いで背中で聞いたものであった。畳が無惨に破れ、掃けば掃くほど床のわらくずがきりもなく出てきて、掃くに耐ええない状態であったからである。
 そこで、これを修理する資金づくりが急務であった。しかし、これが同時に寺総代との不協和音の始まりでもあった。
 前住職の死去と期を一にして、檀家信徒の大半は去っていった。もともと本来の壇家はわずかしかなく、他の寺の檀家の人々が住職とのしがらみから、檀家信徒を逃げ出せずにいたのである。
 残った信徒と幾度とわたり本堂補修の資金づくりが話し合われたが、父をよそ者とみる古老たちは、自分の懐を軽くしてまでの熱意はなかった。口は出すが金は出さないの類である。
 まさに長泉寺は廃寺寸前の様相であった。古刹とはいえ、彼等にとっては何らの利得ももたらさない古寺(小寺)であったのであろう。野田部落の長泉寺を主張しながら。
 こういうことがあった。
 当時、雌の羊を一頭飼っていた。父の媒酌したある中年の夫婦が、縁なく離婚をし、奥さんが可愛がっていた羊を長泉寺へあずけてきたのである。朝、裏山に連れ出して木につなぎ、自然の草木を飼料とし、夕方小屋へ連れ帰る日課であった。
 その日は法要のあと、総代会が開かれ、本堂の補修が論じられていた。そのごたごたで羊を連れ戻しにいくのがやや遅れた、いってみると羊はガケに足を踏み外し、木に繋いだロープで首をくくった格好で、もはや死んでいた。あわてふためき重いからだを引上げ、山中に穴を掘り、そこを墓地とし、泣く思いと罪悪感にうちしおれながら父に報告にいくと、それを聞きつけた総代の一人が、「そりゃいい、わしがさばくから、みんなで食べようや」 と、目を輝かせた。
 その時、わたしは異次元に生息する異人種を見る思いであった。純真な高校生にとっては、初めて遭遇した形而上学であった。
 父が寒行の托鉢を決意したのはこの時である。
 人が頼れなければ自ら動くしかない。自らの力で本堂の補修を、少なくとも屋根を漏らないようにし、畳を使用できるものにする、この思いが寒行へかりたてたのである。これがまた父の自尊心であり、人生への挑戦であり、行動力の真骨頂であり勝算でもあった。
 貧困ゆえに、国東を僧職の起点とした彿との出会いは、父に生涯の天職を与えることとなった。
佛に仕えること以外に、父には生きる手段も能力もなかったといってよいほどであった。
 無一物で別府へ出た父は、仏教伝導の手段として、また家族の口を糊するために托鉢(たくはつ)を始めたのであった。いわゆる乞食妨主であった。
 饅頭笠をかぶり、黒の僧衣をまとい、白脚絆に頭陀袋をくびから下げ、鈴を持つ様子は、墨絵から抜け出た乞食僧の典型であったにちがいない。
 未開の地別府に春秋を求め、一軒一軒門付けし、乞食妨主とさげずまれながらも真剣に鈴を鳴らし経を読誦(どくじゅ)する真摯(しんし)な姿は、その中、信心深い人々の心に共鳴と感動をよび、除々に信者を獲得していったのである。
 特に、父や母が武蔵町旭小学校生徒当時の恩師であった池田一好氏は、当時、別府に在住し、市議会議長まで勤められた逸材であったが、この青年僧一家に多大な援助を惜しまなかった。わが家にとっては忘れ難い恩人である。
 生活はまさに赤貧の中にあった。別府での布教所創立と伽藍建立を夢見る青年僧にかかっていく経済的負担は、五人家族を支えるなりわいの厳しさは、昭和初期の不景気な時代には想像するに余りあるものがあったはずである。それでもおそらく父は、心は勇躍、夢に向かってがむしゃに活動する体力と信仰心に、面目躍如たるものがあったにちがいない。 頭陀袋に一杯になるほどの米の布施をいただき、独特の足音を立てながら帰ってくる。そしてそれを一斗カンにあける。わたしは薄暗い仏壇の前で、カンの中に手を入れて銅貨を探す。そのときのスリルと見つけたときの感動は、わたしの脳裏から今だに消えさらない。ときどき銀色ににぶく光る硬貨に出会ったときは、なぜか母の喜ぶ顔が彷彿されたものである。
 おそらく父は、数十年前の体験が、今行動への自信と信念となり、長泉寺中興の思いとなって、托鉢へ心をはせたのであろう。
 昭和二十七年一月六日、寒の入りを期して寒行の托鉢は始められた。父の知命の歳であった。
 朝五時、寺を出ていく。厳寒の未だ明けやらぬ黎明(れいめい) の漆黒の中、凍てつく空気を破って鈴の音にあわせ、朗々と般若心経がこだましていく。わらじばきの足は音をとどめず、ただし静かにゆっくりと歩が進む。やがてうす明りの中に、ほのかに墨染めの孤僧がシルエットとなり、見る人を漢詩の映像世界にいざなっていく。このような情景が、寒の間一カ月続くのである。
 戦時中、丁壮の男子は戦いにかりだされた。近辺の寺院の住職も一介の兵士となって、多く出征していった。《鉄輪》の永福寺の河野住職もその一人であったが、(武士はあいみたがい)とて、父が不在中の寺務を引き受けたのであった。それが父と《鉄輪》との出会いであり、寒行で多くの方々の支援をいただく要因ともなったのである。
 また、住職が逝去したため、《亀川町》の信行寺を、子息が学校を卒業し資格を得て晋山式を迎えるまでと、父はその寺務をも引き受けたが、それがまた人と人との因縁出会いとなって、亀川町での寒行もまた暖かい支えをいただくこととなったのである。
 当時、父の所業を「乞食坊主」と下げずみ、また、「いつまで続くものやら」と傍観物見たかかった四辺の人々も、父のひたむきな姿に気後れしてか、中傷の声は段々とついえていった。
 そして、初めての寒行の浄財で、本堂の屋根の半分はトタン葺きとなったのである。
 これが毎年続くうちに、屋根はすべてトタンでおおわれ、最大の課題であった雨滴りは止まった。ついで畳も除々に床から新品となり、表も替えて、あの香ばしい畳表の香りが本堂に満ち、外陣はよみがえっていった。
 およそ十年の歳月を要して、父は初志を貫徹したわけであった。
 寒行はその後も継続された。佛を機縁とし、多くの地域に知己ができ、信奉者も増えていった。
 寒に入ると、町の風物詩となったのか、朗々と響く読経の声を待っていたいたように、《鉄輪》の家々には早暁の灯がともり、わざわざ布施を持ってくる信者もふえていった。《石垣》地区ではいたわりや励ましの声をかける顔見知りが多くできていった。
「わたしが死んだら、あなたにぜひ導師をお願いしたい」という老人(実際、父がおくってが)。
「母からいわれておりましたので、わたしが引き継ぎました」と、姑の死後、父の声を聞き、布施を持ってくる嫁。
「まあ上がって、お茶でもどうぞ」という《湯山》の農家。
 行く先々で父は、念仏の功徳と寒行を媒体としてのあたたかい人の情にふれる毎年となっていった。いわば、父にとって、一月六日から始まり二月三日に終わる寒行は、寒声をとり身体を鍛える修行の行事たけでなく、人と出会い、人の情けに触れ、人とえにしを結ぶ人生最大の行事の一つとなっていったのである。
 こういうことがあった。
 ある時、吹雪の朝であったが、今日は天候が悪いので寒行をやめるようにというわたしの注意をおして、父は予定していた《湯山》の町へ出かけていった。毎年のこととて、父を心待ちしている人も多く、たとえ雪の日とはいえ、それを裏切るわけにはいかないというのが父の論理であった。
 その日は幸い日曜日であった。当時わたしは結婚早々で、長泉寺に寄寓していたので、父を支え、父の様子をつぶさに観察できていた。
 その日も平生通り、寒行をすませ昼前に帰ってきた。しかし、顛が異様に赤く酔ったような表情をしており、かまちに座ったまま肩で息をしていた。
「どうしたの、様子がおかしいじゃない」
 わたしは不安にかられて問い正すと
「血を吐いてしまった」
 と、申し訳けなさそうにつぶやいた。
 唖然としているわたしに、たたみこむように、
「雪が鼻の中に吹き込んだんで、ついむせたようになって咳をしていたら、真っ白い雪の上に、真っ赤な血がパアーと散って」
「だったら、なぜ早く帰って来なかったの。大変なことじゃない」
 わたしの声はうわずって、つい荒げていた。
「大丈夫。せっかくだから、予定通り湯山を全部まわってきた。明日になれば、なんちゅうこともなくなっとるよ」
 父は自分自身にいい聞かせるようにひとりごちた。手がふるえていた。虚勢は目にみえていた。
 わたしは肺結核による喀血をすぐ連想した。大変な病にとりつかれたという杞憂と、父の無謀な生きざまに対する非難の心がかすかにうごめいた。
 その日は日曜日の休診日であったが、知り合いの医院に無理押しして診察をお願いした。結局、泰山鳴動、(声の出し過ぎ)から、〈喉の毛細血管の破れによる吐血)ということであった。
 毎年の難行の中には、いろいろな苦難も体験したらしい。しかし、父はおくびにもぐちらなかった。
 これも積雪のある日、雪に足をとられた父はすべりころげたとたん、手にしていた鈴が手から離れ空中に舞い、転んだ父の額面に落ちかかった。額に打撲と擦過傷をうけ、そこから驚くほどの血が純白の路上を染めたのであった。その物音に気づいた近くの主婦が、父を自宅に案内し、応急の手当てをして事なきをえたという出来事もあった。
 彿縁が見知らぬ人との機縁となり、そのおかげで寒行をことなく続けることができたのであった。
 その間、昭和四十一年には、長泉寺は現在地に新築建立移転し、ようやく風雪に耐えうる外観を備えることができた。いわば父は中興の祖として、その業績は成ったのである。

 そして今年、八十九歳、満四十回目の寒行を終えた。(平成五年現在)
 もはやいくばくの余命もないかもしれないが、托鉢に生き、托鉢に死するその生涯を、父は生ある限り、人生の舞台で演じるのではあるまいか。
 考えてみれば、家族の生活を支え、五人の子をすべて大学に学ばせ、老いた今もだれに迷惑をかけることなく、今だにかくしゃくとして長寿を誇る人生は、父の同世代の知人縁者すべてが逝命した今、まさしく父の佛縁の深さと真摯(しんし)な生き方のたまものと考えざるをえないのである。



      布教所開設を握り返る

     何ごともみ仏まかせ苦も楽も

         乗り越えて来し六十年の日々

                           (輪害正教・平成三年十月)
      

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