- 父が浄士寺勤務を始めたのは、昭和30年のことであった。
長男が仏教大学を卒業後、別府の東山小学校と中学校の兼任教師を五年近くやり、その後別府山の手中学、石垣小学校など勤務し、やがて本業の僧職についたが、丁度その頃、大分市の浄士寺から加勢をいただけまいかとの誘いがあった。専念寺(のち極楽寺と寺号変更)と長泉寺の兼務住職をしていた父は、小寺に2人の僧侶は不要だとして、これらは主に長男にまかせ、自分は浄士寺の寺務の加勢を引き受けることとなった。父の52歳の年であった。それから昭和62年、84歳まで、営々30年余りの年月を積み上げたのである。
浄士寺は徳川家松平一伯をまつる別格寺院であり、由緒ある名者刹で檀家も多く、寺周辺の生石町・王子町などは軒並みにその檀家信徒であった。
当時、まだ老僧が住職をしており、その子息が結婚しだちであったが、残念なことに共に健康にすぐれなかった。だから、健全でファイターの父、寺にとって貴重な存在となっていったのである。
やがて老僧夫妻は世を去り、ご子息が住職をひきついだが、今はもうこの世にはいない。そして、父がその成長のすべてを知り、読経や法式を教えたその孫が最近住職となった。父は三代の住職を支え、当寺の消長の生き字引として、いわば大久保彦左衛門を担ってきたのであった。
当時はまだ別大電車が走っており、別府からこれに乗り通勤した。これが撤去されると、列車に切り替えた。雨の日も風の日もの日勤であったが、古い時代に生き育った律義な人間にとっては、生きがいのある寺務であったようである。
発熱しようと、少々の怪我があろうと、皆勤した。おそらく自分を持っている檀家のひとびとへの思いが父の心に気カを呼び起こしたにちがいなかった。
土曜も日曜も祭日もなかった。死者は曜日を選ばず、1日から30日まで1ヶ月間、寺務は常に動き継続していた。父はその中心にいた。ただ、2月29日と隔月の31日は公休日で、その日は必ずといっていいはど、亀州の長泉寺の墓地の掃除に通っていた。年間の休息日はなかった。
われわれから見ると激務と感じられたが、これが父の生きがいであり、幸せな人生であったようである。とにかく、心体を動かしていないと落ち着けないようであった。これは厳しい時代に生きたこの世代のひとびとの習性であったのか、はたまた父の開拓者精神の発露であったのか。その血がわたしの中にも流れているが、その行動カには及びもつかない。
昭和37年頃であったろうか、台風によって仏崎の電車道が落石によって埋まり、祈りから乗あわせた電車が埋没して多くの死者を出したことがあった。当時、わたしも亀州から大分へ通勤していたが、間一発でその災害からまのがれた。しかし、わたしたちの心配もよそに、父はその日も自転車にのり傘で風を避けながら、泰然として檀家まわりをしていたのである。これも間一発で帰宅した父がこの事故を知ると、自分には仏さまがついているからと、自若としていた。
とにかく、労働に気カが充満していた。人生の価値尺度は父にとって年齢ではなかった。檀家の方々も父のその生き方を評価していた。
父は、自転車を常用した。
別府での寺務も常に自転車であった。別府の自宅から亀州の長泉寺への毎日の往復もすべて自転車で通した。自転車は終戦以降の生活習慣であり、いわば皮膚の一部であった。
自転車は、今はやりの軽快車などというおこがましいものではない。実用車という名だる重戦車である。車種もタイヤの空気圧もブレーキのきき具合も、そんなものは父には何の関心もなかった。もし動きが純ければ、父は自分の足の筋カでそれをカバーした。とにかくタフであり、不平もグチもなかった。
大分の浄士寺にでも、自転車はついてまわった。
西大分駅の駐輪場から、年代物の自転車を引き出し、それから一日が始まるのである。
何台乗りつぶしたことか。毎日およそ14・5キロを走り回る。寺周辺はもちろん、八幡地区や大道トンネル付近から、時には植田や狭間町へ、白木へと足を延ばすこともある。これを30年間続けると運転技術も職人芸となる。アクロバット運転で、幾度交通事故を起こしかかったこ
とか。いや、ぶつかつて、顔をすりむき手足を打撲して、浄士寺の奥さんの手を幾度わずらわせ たことか。衝実事故の原因はいつも父にあったらしい。だから事故を警察に届けたことはいちど もなかった。しかし、そんなことでへこたれるようなやわではなかった。雨の降る日は傘をさし、 風の吹く日はえりを立てて傍若無人、道は自分のためだけにあった。
交差点で出会い頭に車とぶつかりかかりそうになり、衝突寸前でやっと止まった自転車の父と、 車の運転手とが目をみ見あわせ、互いにニターと笑い合うことがよくあったらしい。このような 出来事を当然の生活の一部として、気にもかけていなかったようである。交通事故についての注意 をすると、そんなことを心配しては、檀家参りはできないと一笑した。だからわたしたちは、父の一生は、瞬時にして終わるであろうと風評していたものである。
父の自転車乗りの姿は、近辺で有名であったようだ。雨の日も風の日も見かける街の風物詩であった。80歳を越えた老人のアクロバットは、見るひとをはらはらさせていたに違いなかった。
赤信号も車さえいなければ無視した。待って時間をつぶすより、檀家のひとびととその分話しをすることの方が、お互いに幸せなのであった。
おかげで身体は頑強になった。とくに足腰は並のものではなかった。わたしたちと一緒に歩いても、とても追いつけないほど歩行は早かった。腰を曲げると手の甲がきちっと畳みについた。身体には肉がほとんどないほど痩せていたが、必要な筋肉だけが骨をまいていたようである。父はそれを誇りとし、わたしたちの前でしばしば父独自の体操を自慢げに演じてみせた。 それよりもなによりも、気カが充実していた。僧侶は自由業であり定年がない。これは父の人生の強みであった。父にとっては、一線をひくなどは思いの外にあった。
(無用者となることは、定年退職よりもっと堪え難いことである。なぜなら個人は社会から廃品
のように投げ出されてしまった感じがするからである) (Brоmley・D・B)
(希望とともに若く、失望とともに老いる) (ウールマン)
などという危惧や助言も父には無用であった。人生の末をくよくよするよりも実行が先にあった。与えられた仕事をするよりも、自ら実行することの方がどんなに楽しく実効が上がるかを、自分の行動でひとびとに示した。常に開拓者精神が横溢(おういつ)していた。そして、仕事については常に謙虚であった。
父はよく自分の子こどもたちを自慢した。
浄士寺で、檀家の家で、通勤列車の中で。
貧困の中に生まれ、苦労と孤独の中で育った父の成育の欠落が、本能的に家庭を大切にし、子どもに最大限の投資をする人生感覚となったのであろう。そしてその投資が成功し資産を得たと判断したのであろう。だからわたしは、父の自慢話しを耳にしてもけっして父の饒舌を非難しなかった。内心は困ることが多かったが。
七人の子をもうけたが、戦時中に栄養障害が原因の病で、2人の女の子を亡くした。とても可愛いいさかりの2歳の時であった。しかし、四人の男子と1人の女子は成人した。まさしく貧困と同居する中ではあったが、つつましやかな家庭で助け合いながらの成長であった。両親の努力と苦労を肌で感じ時ながらの子どもたちは、『後姿の教育』 の中で育っていった。
次男は大学生活は親からの支援はうけなかった。京都で寺に随身し、生活はすべて自分の努力で仕上げたのである。仏教大学卒業後は、竹田小学校で教員を三年した後、福岡の郡部にある円覚寺に養子に行き、その地で約20年間教師を勤めた後、養父の逝去により住職となり、今では父以上の信仰心の強い僧侶となっている。
三男はわたしで、見る影もない。悲しき田舎教師で、兄第一の落伍者を自認している。男の兄弟の中でただ一人、仏教系の大学にはいかなかった。
四男は大正大学で宗教学を専攻し、大学院の博士課程を終えて、いまは都内で大学の教授を勤め、宗門では名の知れた学者となっている。学会での発表や宗教誌や専門書の出版、講演などで活躍している。総本山知恩院の法要で、参列した僧侶たちから、
「芹川博道先生はあなたのお子さんだそうですね。いいお子さんをお持ちで幸せですね」
といわれたときほど、父のうれしさは頂点に達するらしい。自慢の子である。
生き残ったひとり娘も、今ではもう不感を越え、人並みに子ども教育に浮身をやつす母親となっている。保母をしながら、ピアノ教師をし、広告業の夫といい家庭を作っている。いいことには、現在両親と同居し、親の面倒をみてくれている。親にとって、実の娘が何といっても一番ありがたいらしい。幸せなことである。
父はよく
「うちの子どもたちには一人も欠け落ちた子はいない。うれしいことだ」
と楽しげに誇っていた。子を語るときの親の顔はだれもが誇らしげだ。たとえそれが聞く人にどのように不快感を与えようとも。親にとってみれば子どもは自分の生涯の記念品であり、心のよりどころであり、血をつなぐ跡継ぎなのだ。おおいに誇りとするがいい。人生の幸せを人に吹聴するがいい。だからわたしは、父の自慢話しも、父の勲章として評価してきた。
考えてみると、このようなことを書いている自分も、いつの間にか饒舌でお人好しの父と同じことをしているようで、慄然(りつぜん)とする。まさしく、
《親と子の宿世かなしき蚊遺火かな》 (久保田万太郎)
である。
わたしの長男が中学生のとき、父が、汽車通りの同じ学校の生徒に、
「芹川伴之を知っているか」
とたずね、その子が
「ああ、生徒会長さんでしょう」
と答えるやいなや、
「あれはわたしの孫だよ」
といったとかで、それを開いたわたしの子から難詰され、大変困ったこともあったが。
今では五人の子と、九人の孫、そして6人の曾孫のピラミッドの頂点にある。
父は自寺の多忙なときは、それをすませて浄士寺に足を延ばした。ひどいときは、もう一度別府に引き返し、寺務をすませて再び大分へUターンすることもしばしばであった。寒中は寒行を午前中ですませて、浄士寺に勤務した。精神が身体を超越していた。
月忌参りから帰ると、よく境内の雑草取りをした。寺の納戸になおしている自前の作業者に着替え、寺の雑用を何でもした。住職が2代そろって病弱であったため、大変重宝された。
《ひとから与えられた仕事より、じぶんから作った仕事のはうが貴重である》 であった。
煙草もたしなまず酒ものまず、他に趣味ももたず、遊ぶことを知らず、ただただ仏を信仰し、念仏三昧、自分は表にしゃしゃり出ることをせず人を支え、仕事に専念することだけが生きがいであった。
そういう勤勉さを見慣れている檀家からは、たいへんうけが良かった。
「芹川さんはすばらしい人ですよ。お経の声がいいし、何よりもありがたかった」
「お経がおざなりでなく、心がこもっていた。そしてあとでお話しを聞くのがまた楽しかった」
「芹川さんのようなお坊さんは、おそらくもうお目にかかれないんじゃないですか。心底からのお坊さんでしたよ」
「なによりも人間的に温かかったですよ。よくよそでいただいたお菓子をうちの子にぽいとくれたりしてね、子どもたちからも好かれていましたよ」
「わたしは昭和の良寛さんだと思っていましたよ」
わたしの開き歩いたところで帰ってきた声である。
「わたしの畑が八幡にあってね、よく野良仕事中に出会ったのですが、よく声をかけていただいてね、ほんとうに気さくで腰の低い人でしたよ」
「年はとっておられましたが、ロマンティストでしたよ。道ばたに咲いている黄色い野菊をよく摘んでいましたよ、それをお寺に持ち帰って、お部屋にさしたり、欲しい人にあげたり、お墓や石碑のまえにあげたり、よく気のつく方でした」などと、檀家の二宮さんは語ってくれた。
父の野菊好きは知っていた。父の作る短歌にもしばしばテーマとされていたからである。おそらく母の名前が(小菊)であったことから由来しているのではないかとわたしは考えていた。
「子供が小学校から間もなく帰ってくるとわかると、その子を一目みるまで待っていてくれて、ほめてくれるんですよ。ですから、その子が高校に入学したとき、芹川さんところに挨拶にいかせました」
と父の病気見舞いにわざわざ来てくださった寺田さん。
「お経を教えていただいたんですよ。おかげで朝夕こうしておつとめさせていただいております」
と、入院先の病床で、涙していただいた95歳の浦田さん。
父の思い出をたどろうと考え、浄士寺はもちろん、檀家の方々をお尋ねし、父の30数年間の点を線につないでみたが、父を悪くいうひとには出くわさなかった。お世辞半分としても、父の誠実な人柄がひとびとの心の奥底に浸透し、父の歴史をきちっと残してくれているという感動をおぼえたのである。
父にとっては、やはり檀家の方々との交流が生きがいであったようである。僧職は父にとって、
まさに天職であったのであろう。
父は宗門の頂上である知恩院を心の聖地としていた。
知恩院に足を踏み入れ、その霊気にふれたとき、父は最上の生きがいを感じたにちがいなかった。そこでは、法然上人の魂に触れ、管長猊下に親しく拝謁し、信仰の同志と親交をあたためることができたのである。
知恩院最大の法会の一つに開祖法然上人の御忌会がある。毎年四月18日より25日までの約一週間行われるが、全国より憎侶や善男善女の信者が参集する。
この法要に父は49歳の年より参列を始め、途中一回欠席したが、88歳まで約40年間精勤した。父にとっては、年間最大の行事であり、人生最上の生きがいを感じ、信仰心を深め、自尊心をくすぐるイベントであった。
長い継続の間、いつの間にか参列者の最古老となってしまった。知己友人も多くなり、父の世界が全国に広がっていった。いつしか父は法要にとって欠くことのできない存在となり、知恩院関係者みなの知る人物となっていったのである。まさしく継続はカであった。
父はミカンのできる頃となると、初物を必ず知恩院に送った。この習慣はもう何十年来のものである。そうすることが律義な父の本山への帰順の表現であったのか、あるいは自己の存在感を示すデモンストレーションであったのかわからない。そんなことを詮索するほうが不純なのであろう。生きがいであったことは間違いない。
その度に知恩院からは感謝の手紙に添えて、記念品が必ず送っていただいた。これを受る喜びと満足感が、また生きがいでもあったのであろう。
知恩院の御忌会が近づくと、父はそわそわし始める。思いが京都に走って、仕事が手につかなくなるわけではない。いや、仕事が増え過ぎるのである。
一週間の知恩院での宿泊は、僧侶にとって修行の場でもある。とはいいながらも、毎日の精進で簡素な食事には閉口してくる。味は淡泊なのでこれでは身体がもたないと思い始める。しかし、娑婆世界に栄養を求めるわけにもいかない。そこで人々は食事についていろいろな知恵をめぐらす。その先鋒となったのが父であった。
毎年ふきの佃煮を大量に作り、これを樽いっばいにつめ、前もって知恩院に送っておき、それを栄養源にしようと考えたのである。長男に命じてふきを大量にとってこさせた。それの皮をむいてあくをとり、それを何日も煮詰めて佃煮に仕上げていく。この技術は母が担当した。多量なため、最初の頃は失敗もあったらしいが、3年5年とたつうちに、母独自の甘辛い味付けが食べたひとびとに評判を呼ぶようになっていった。食べたひとから賞賛されたときの喜びはひとしおであった。その時の充実感を父は忘れられないのである。
そして今年も芹川上人を知恩院で見かけると、またおいしい何が会べられるとひとびとはうわさをするようになった。だから父は、法要が近づくとそわそわし始めるのである。
初めてこの法要に参列したときの管長は岸信宏量譽猊下であった。管長は宗門の長であり、近寄りがたい存在であるので、父も末席から一瞥(いちべつ)するのが精一杯であったが、つぎの高畠寛我明譽上人の代となると、父も段々と歳も重なり、猊下(げいか)に親謁できるようになってきた。その感動はおそらく言葉に尽くせないものであったに違いない。名もない田舎の小寺の自分が、管長様とお話しができるなど思ってもみなかったことであろう。父はその感動を自分ひとりの胸中に収めきれず、家族や檀家のひとびとに自慢した。
昭和56年より管長をつとめられた藤井実応大僧正猊下は長命な方で、昨年95歳で遷化されたが、父を心から可愛がってくださり、父の生涯に生きがいを与えていただいた恩人であった。
会席では必ず管長の横に席をつくっていただき、無位無冠の者にあるまじき厚遇を得たのである。参列者の中には父を嫉む人もいたが、父と管長との関係を知ると、それも消えていったそうである。互いに長命を誇る人生が意思の疎通を引き起こしたのか、うまがあったのか、それとも信仰心が共に通じあったのか。いずれにせよ、父の誇りであり生きがいであった。 その上うれしいことには、記念品を毎年いただいたことである。それを父は知人縁者に誇らしげに見せていた。金杯や香炉、掛軸など自慢の品を今も床の間に展示している。
とくに、米寿の表彰は父にとって生涯忘れ碍ないものとなった。知恩院での表彰式には檀家総代を連れていった。長男も式に列席した。日頃は入れない知恩院の部屋部屋の案内を受け、同行した者たちが父以上に感動していた。
その藤井猊下も昨年9月亡くなり、父は心の柱を失ったようであった。今年2月、中村康降心譽上人が管長となった。しかし、父は今年はとうとう力尽き、あれほど楽しみにし生きがいであった知恩院の御忌会にもとうとう行けなかった。新しい管長さんにまみえることはもうないのであろうか。おそらく父の志をついで、長兄が今後参内することであろう。
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