飢えの時代
   


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4.ミミズの煮汁 8.イチジクの頃 12.あとがき

 
  戦中戦後は食料難の時代であった。
 それはわが国の長い歴史の中でも、消しえない恥辱的な汚点であったにちがいない。
 特に、戦後は飢餓地獄であり、日本人は生きるために自尊心を捨て、人道も人思いやる美徳も地に堕ち、まさしく末法の世の到来であった。
 父は敗戦と期を一にして、小倉より。”復員”してきた。なぜかトマトのいっぱい入ったリュックを背負ってである。
 やっとそろった家族ではあったが、ここから父や母の厳しい生活難が始まったのである。もちろん子どもたちもその犠牲者であり、協力者であった。

 それは戦時中のことであった。
 杵築駅で帰りの切符を買っために、わたしと兄は人の列の中にいた。
 汽車の到着時間三十分前になって、やっと切符の販売は始まった。人の列はざわざわと動いて前に進んでいく。人波にもまれながら、まだ小学生の兄弟は両手に抱えた荷物の重みに耐えながら、切符が自分たちまでくることを祈るような気持ちで、少しずつ前へずって行った。
 切符を手にいれた客は、上気した面持ちで列を離れて行く。みんな風呂敷包や大きな袋を担いだり、手にしたりしている。明らかに食料の買い出しの帰りの様子がうかがえる人々の雑踏であった。
 もう四・五人で自分たちの番だと思った時、突然、駅舎の中から、
 「ここで、もう切符は売り切れで−す」
 それを耳にした行列からは、悲鳴とも溜め息ともつかないざわめきの声が起こった。
 「父が危篤なんです。なんとかしていただけませんか」
 窓口に駆け寄って、泣き出すような声で若い女が懇願したが、窓口のガラス戸がバタンと落ちただけであった。
 人々の列はまだくずけず、次の汽車に期待を移す気配であった。
 わたしは兄の顔を見た。兄は青い顔をして、わたしと視線を合わせた。しばらく無言であった。
 頭の中では、次の汽車までどう対応すればいいか、思考が空転していたに違いない。小学校六年生と二年生の兄弟ではあるが、指導力や発想は弟の方がすぐれていた。
 父の代わりに兄弟は国東(くにさき)の武蔵(むさし)町まで、トイモの買い出しにでかけたのである。
 連絡が先方にいっていて、わたしたちはただメッセンジヤ−にすぎなかったが、それでもわたしは両手に風呂敷包みで二貫目(約七キロ)、兄は肩にもかついで三貫目(約十キロ)のイモを運んでいた。こどもにとっては決して楽な旅ではなかった。   
 当時、国鉄の杵築駅から国東町まで軽便列車が走っていた。これに乗るのが、わたしの子どもの頃の最大のロマンであった。
 その沿線には従姉妹の住む光明寺(こうみょうじ)があり、潮干狩りがあり、釣りがあり、海水浴があり、母の里である蓮華寺(れんげじ)があり、叔父や叔母がおり、従兄弟がおり、父の語る森の中の怪談があり、珍しい小魚の住む小川があり、その上、町育ちのわたしのプライドを満足させる田舎人の人情があった。
 だから、わたしにとって、この軽便列車に乗ることは、至上の夢であり旅であった。帰りには杵築(きつき)駅に着いて、今度は日豊本線に乗り換える。山香(やまが)の方から黒い点の列車が見えた時、わたしはいつもしびれるほどの旅の興奮にかられたものであった。
 それが戦時ゆえの石炭不足、機関手の徴兵、そして軍事優先の客車の間引きの結果、乗客の切符制限となったのである。
 次の汽車までは約二時間半の待ち時間があった。十月の夕暮れは早い。ふたりは暗くなるまで
 待つほどの我慢も時間つぶしの方法も考えに及ばなかった。
  「歩こうか」
   どちらともなく、そんな気持ちとなっていた。暗黙のうちに伝心したのであろう。
  「二時間半も待つくらいなら歩いて帰ろう」
  「道が分からん」
  「だれかに聞きゃ分かるやろ」
  「そうやな、バス道を真っ直ぐに行きよったら、別府に着くやろ」
 ふたりの子どもたちは、重荷を持ったまま、軽便の線路の上を歩き始めた。おそらく、どこかに別府から国東に通じるバス道に出る小道があるに違いないと、わたしが判断したからである。しかし、心細さはべそをかく寸前であった。兄は年長者としての責任感で極度に緊張していたに違いない。互いの心を察知しあっての無言で足を運ぶだけであった。
 ふと、勤め帰りらしい労働者がわたしたちを追い抜いて行った。兄はわたしの顔を見た。この人に道を聞こうかといった表情であった。わたしは無言でうなずいた。
 兄は小走りでその人に追いつくと、事情を説明した。わたしはふと、わたしたちの持っているイモを、この人から奪われるのではないかという猜擬心がちらと働いたが、今の境遇はそれ以上に道探しの方に価値があった。
  「そうか、別府まで歩くつもりか、遠いぞ!」
 その人はわたしたちの幼い姿を一瞥すると、脅すようにいった。
 わたしは粗末なその服装から、やはりこんな人に尋ねるべきではなかったかと一瞬反省した。
 「よし、そんならおじさんについておいで、バス道に出るまで連れて行ってあげよう。それにしても、小いせえくせによく頑張るな」
 と言ったかと思うと、その道を折れ、畑の畦道を先にたって歩き出した。
 地獄に仏の思いであった。先ほどの不信感は霧散した。現金なものである。服装が働く男の象徴のように輝いて見えたから不思議である。
 大通りに出た時は、もはや五時過ぎていただろう。
 大通りとはいえ、アスファルトを敷いているわけでもなく、荷車の轍(わだち)のあとが道路に凸凹をつくり、小石まじりの歩きつらい道であった。戦時中とて車の流れはほとんどなく、それでも時々トラックが砂塵を巻き上げて通り過ぎていった。だれ一人として、荷物をかかえた兄弟がこれから別府まで歩いて行くなど、考えもつかなかったに違いない。
 二人は無言であった。重い荷物を持ち変えたり担いだりしながら、ただ黙々と歩いた。人影は少なく、寂しい田舎道であった。荷物の重さよりも、人の少ない寂しさが二人の心を無口にしてしまっていた。
 段々と辺りは茜色に染まり、夕闇がせまってきた時、兄は寂しさに耐えかねたように、突然、
 「からす、なぜなくの…」と歌い出した。声が震えていた。それをきっかけにして二人は思いつくままの歌をうたった。声は恐怖をやわらげ、存在感を引きたてた。
 四面がシルエットの風景にかわると、かえって度胸がすわってきた。遠くに点在し始めた電灯の光が、わが家への郷愁をつのらせる半面、人の存在の証明となり、恐怖心に安らぎを与えてくれる効果となった。
 突然、群れた町明りの灯が視界に入ってきた。
  「あれは亀川の町やろか」
   と、兄がうわずった声でいった。
  「だったらいいな。でも、ちっと早えんやない」
  「本当なあ、ちっと早う着きすぎるなあ」
 それでも、急に二人は歩調を早め、明りに向かって歩きだした。
 それは、やっと日出(ひじ)の町中の明りであった。まだやっと半分にも満たない距離の出来ごとであった。
 漆黒の中でわたしたちは、荷物の重荷にたえながらバス道をひたすらに歩いた。なぜか途中でバスに乗るという知恵もなかった。バスが来なかったのかも知れない。
 亀川の電車の始発駅についたのは、八時半をすぎていた。
 やっと着いたという安心感で電車の椅子に度を下ろしたとき、丁度乗るはずであった列車が亀川駅にすべり込んできた。
 戦後の食料難は、ただ生きるための食べ物を口にすることだけに価値観が置かれ、精神も文化も愛も、かくも脆いものであったかというほどの人間の赤裸々な弱点を暴露した時代であった。

 だれもが食料入手に腐心した。穀物類はもちろん、野菜も果物も嗜好品も衣服も文具も、なにもかも戦争の後遭症で庶民には異次元の物質であった。
 町の人々は嫁入り道具の帯やつけさげをもって田舎に行き、お百度を踏んでやっとお米に交換してもらった。食べ物を手に入れるため、深窓の娘を農家に嫁がせた話は日常茶飯事であった。
 食料の買い出し部隊は汽車を鈴なりに占領し、これが日本国中の風俗ともなっていた。
 警察は経済統制令違反を盾に、これらの闇食料の買出しを取り締まったが、国家は充分に国民が生きるための食料を配給する能力は持ち合わせなかった。米も月にわずか十日分くらいしか配給されず、しかも一日分の量もわずかなものであった。それだけをまもって餓死した裁判官も出たほどである。         
 父は家族の柱として、家族を養うため自尊心もすて、あらゆる労働をいとわず、なりふりかまわず、この厳しい時代を乗りきっていった。こどもの目から見ても、男の、親の、たくましくも悲しい生きざまは強烈であった。小さい身体でただ働くだけの姿がわたしの印象に残り、それゆえに今だ父の生涯を座視できないでいる。
 米びつが寂しくなると、父は武蔵町にしょっちゅう出かけた。田舎はそこしかなかった。知人を訪ね、米や麦や小麦粉の無心をした。旧知といっても、他人はやはり他人であった。頭をさげ、機嫌をとり窮状を訴え、相手に不快感を与えることはわかっていても、幾度もお願いする以外はなかった。少しずつ手にいれた食料は毎回なんとかさまになった。なぜか、わたしもしょっちゅうそのお供をした。父が大きい荷物を持ち帰えれる時は、子ども心にも楽しかった。
 家の裏にまさに猫の額ほどの空地があった。便所の汲み取りのためにあいた空間である。
 父はここに鶏を十羽余り飼った。自営蛋白質の唯一の補給源である。早暁、籠をかついで東別府の海岸にある野菜市場にいく。そして商品にならないかぎ葉をもらってくる。それを鶏にやった。 キャベツは最上の飼料である。時にはそいつが人間の口に入ることもしばしばであった。野菜くずが手に入らない時は、露草を野からつんできた。鶏はけっこうこれも食べていた。砂糖はどこで手に入れたのだろうか。
 卵を母はよく売りに行った。新鮮で大きいということでよく売れたそうである。
 別府のメインストリートであった流川通りの両端には、当時、歩道があって舗装されていなかった。ここを隣組で公平に分割し畑とした。わが家も畳一畳程度の広さの土地が割り当てられた。
 ここを唯一の財産として、いろいろな野菜生産に利用させていただいた。
 ある夕方、まだ成熟していないカボチャの収穫を楽しみにして眺めていた父が、
 「とるのは、一寸早いかな、もう一日待とう」
 といって帰ろうとした時、その手をひっぱって兄が、
 「とられやせんかえ」と、忠告したが、
 「よもや、そんなこたあないやろう。まだ熟れとらんもんな」
 父はそのまま引上げてしまった。翌朝、わたしは”畑”に行ってみると、お見事にそれは雲がくれしてしまっていた。兄が気違いみたいになって父を責めたことはいうまでもない。
 米の代わりにトイモやジャガイモが配給された。芋類は腐りやすく時にはたべられないものまで配給される。また、生産地や種類によっては品質に大きな差がある。だから
 「おいもの配給ですよ」隣保班の班長さんから連絡があると、
 「今日のは、どこのいもかえ」
 「呉崎のらしいよ」
 「ああうれしい、なくならんうちに急いで行こう」
 こんな会話がよく聞かれた。ひもじい中にも、味覚は滅びていなかったのである。わが家では、よくこんな会話があった。
 「御飯よ」と、母。
 「本当に御飯かえ」と弟。
 「晩御飯やないか、早う帰っちょいで」と、母。
 「本当人御飯やったら帰るわい」と、弟。
 毎日がろくにお米の入っていない雑炊のために、お米御飯だけが御飯だったわけである。その雑炊でさえも、わたしは遠慮しいしいいいただいた。中学生の一番食べ盛り、成長の激しい年頃ではあった。
 食事は板張り六畳の間の〈お勝手)で、丸い卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで、家族六人が一緒にとる。わたしは、椀に二杯食べると、必ず「ごちそうさま」といって立った。すると父が
 「憲夫は少食やのう」
 と立ち去っていくわたしを目で追っかけながらいったものだ。その度にわたしは悲しい思いをしていた。
 〈おれは本当はまだ食べたいんだ。おなかいっぱい食べたら、ほかん人の食べるんがなくなろうが)。この思いとこの食習慣とが、おそらく高校卒業まで続いたのではなかったろうか。
 米を二十日以上口にしない日が続いたことがあった。子ども以上に母はどんな思いで毎日の、育ち盛りの男の子の、食生活に心を痛めていたことだろうか。
 そんな時、「麦」の特配があった。
 お米屋の店先に一列に並んで、順番を待つ間、米屋のおじさんが木枠でできた大きな米入れの中から、米や麦をすくって秤にかけ渡してくれる。その様子を眺めながら、わたしは密かに〈大人になったらお米屋になろう)と決心したことだった。米屋にはたくさんの米がいつもあった。
 そしてその夜、夕食は丸麦だけの御飯であった。かたくて歯ごたえのある穀物であった。ぽろぽろしてはいたが、これ程おいしいものを食べた経験は絶えてなかった。まさしく涙の出るほどの感動であった。

 わたしは次兄と食料移住をした。わたしが国民学校五年生からの三年間であったろう。
 夏休みが来ると、二人は安岐町の浄国寺のお盆参りの加勢にいく。約三週間は食料地獄から離れる。お盆参りがどのような苦痛であっても、せめて三度三度の麦飯がたべられるよろこびのほうが、子どもの人生には価値があった。
 まだ新婚間もない美人の奥さんの炊く、いりこ入りカレーはまずかったが、それでもその下には麦飯があった。
 灼熱の太陽の下を、ぼこぼことほこり立つ田舎道を、二人は白衣を着り、夏衣をつけた正装で歩く。足袋はすぐほこりまみれになり、体からは汗がしたたり落ちる。しかし人家の消えた山道に入ると、白衣の裾をからげあげ、足袋もぬいでわんばく小僧に化ける。せめてもの子ども世界の特権であった。けっこう楽しい労働体験であった。
 部落のお祭りの日に出くわすことがある。こんな時はどこの家でも酒饅頭やゆで餅をつくる。
 お参りに行くと、その鰻頭が出る。こんな美味はない。すすめられるままに、最初の家で二つ三ついただく。極楽極楽というやつである。二軒目に行くと、律義な田舎の人はどうぞどうぞと、人にすすめることが情の表現と強引に食べさせる。これが三軒目・四軒日の頃になると、田舎の素朴な人情が悪鬼の勧誘に見えてくる。食べない苦しみよりも、食べ過ぎた苦しみの方がなんと生き地獄であることか。
 五軒目からは、
 「そうやな、もう食べれんやろうな、じやあ、包んであぐんから、お寺に帰っちからおあがり」
 五六個を新聞紙にくるんでくれる。これが三四軒続いて、最後に風呂敷を貸してくれる。わたしはいいお土産ができたと、田舎の人々の情愛の深さとやさしさに感動しながら、これは兄も同じ状況であったが、食料事情もなんのその、はくほく顔で寺に帰ってくると、
 「そんなものは、山ん中でも捨ててくりゃよかったのに」であった。
 わたしは直ぐにでもこれを家に持ち帰り、弟や両親に食べさせればどんなに喜ぶかと、苦い思いをしたことであった。ない者の悲哀であったのかもしれない。
 父や母は何の因果か、こんな時代に家族を養う羽目となったのである。せめて、その代償は子どもたちがつぐなってあげなければと思うのである。


    古希の祝いにて
      子らはみな一つ一つにおさまりて
        古希を迎える喜こびのはる

      (輪譽正教・昭和四十七年二月)
 


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