病室にて
   


・ホーム   1.口書き 5.仲人狂い  9.寒行に生きる
2.母への思い 6.飢えの時代 10.生きがい
・地図 3.開拓者 7.病室にて 11.消えゆく日々の中で
4.ミミズの煮汁 8.イチジクの頃 12.あとがき

 
  わたしは昭和二十三年十二月、病をえて、別府市内の外科病院に入院した。中学二年生、十四歳の冬であった。
 病を自分でつくり、いつも病気がちであったわたしの、これが子どもの頃の、最後の大病であった。しかし、半年後退院した時は、わたしの一生を左右するほどの、厳しい後遺症を残すこととなったのである。終戦後間もない頃の不幸な歴史であった。
 それは寒い日から始まった。
 敗戦でわが国の教育は、『歴史』も『地理』も『剣道』も『君が代』も『奉安殿』もみな勝者から奪われ、学校は急激に変わった国の思潮に難破寸前であった。しかし、子どもたちは空きっ腹をいとわず、母親の帯芯で作ったグロープで球を追い、手づくりのバットで球を打つ野球に明け暮れていた。そこには、プロテクタ−はもちろんキャッチャーマスクも何もなかった。子どもは適応が柔軟であった。不死鳥であった。
 人並みに野球部にいたわたしは、その日も放課後、いつものように球を追っかけていた。しかしその日は、身体が異様に熱っぽく、自分の身は意識とは完全にかけ離れて雲の上を走っていた。ようやくわたしの異常に気づいた仲間は、一人では歩行困難となっていたわたしを、両端から抱えるようにして、薄暗くなった道を自宅まで運んでくれた。寒い日であった。
 翌日からわたしの左足の大腿部は、劇痛に翻弄されたのである。往診を頼んだ内科医は劇痛に関心を示さず、ただ高熱を知って風邪と診断した。しかし、数日たっても熱はおさまらず、あげくのはてに座骨神経痛と診断をかえた。
 母はこんにゃくの湿布がいいといえば、こんにやくで腿を暖め、にくにくが効くと人から聞けば、にんにくをおろしですって湿布した。が痛みは一向にひかなかった。十日余りして、内科医はわたしの病状を見放し、外科にかかることを勧めた。
 翌日、人力車に生まれて初めて乗せられて外科病院を訪ねたわたしは、『筋肉炎』と診断され、ただちに手術となったのである。
 戦後の医療の不十分な時代であった。麻酔薬も効能書通りにはいかない、狂うほどの痛みの手術であった。手術に立ち会い、手術台の枕元でわたしの両手を押さえていた長兄は、患部にメスが入り、肉がめくれるようにそりかえって血がふきだしたとたん、顔面蒼白となり貧血を起こし、父に支えられ退場となった。これが骨肉の情愛というものなのであろう。
 左足の腿の付け根の辺りの筋肉が腐って化膿しているはずだとした診断は当たっていなかったが、手術をして一週聞くらいたってから、血膿が出はじめた。これが塞がるまで、これから半年かかるのである。
 手術跡は一向に肉が盛り上がらず、疼痛は引かず、あげくのはてには2ヶ月後、患部が再び酷く化膿して反対側のお尻が腫れあがり、もう一度メスをいれることとなった。その時は膿板いっぱいの膿が出たほどの厳しい病状であった。
 手術後のもうろうとした意識の中で、下の道路から聞えてくる子どもたちの遊ぶ声が、幻聴となってわたしの心をさいなんだ。数百メートル先の日豊線本線の遮断機のチンカンチンカンという信号音と、線路を通過する汽車の振動が、なぜかすぐ近くに聞こえ、わたしを奈落の底に落とし込む凶音となって苦しめた。
 痛みと苦しみと悲しみと恐怖と孤独の織り成す煉獄の日々であった。そして痩せ細っていった。
 食料難の時代であり、付添婦を雇うような資力も余分な食料もないわが家であった。家族の一人が病むと、家庭全体の歯車が狂い出す世相でもあった。病院からは、もちろん食事の支給などなかった。
 父が病人のすべての面倒を見る羽目になった。
 父は朝起きが早い。起きるとすぐに炊事の支度にかかる。
 七輪に新聞紙を焚き付けに、木炭に火を起こすのである。手の凍えるような朝、七輪をかかえて階下におり、道路に出て、団扇でバタバタやりだす。その音が二階の病室まで聞こえてくる。おそらく入院患者の付き添いの人々が、毎朝おなじ生活習慣を繰り返す中で、顔馴染みになっていくのであろう、朝の挨拶がよく聞かれた。
 火が起こると、七輪をかかえて、部屋へ上がってくる。
 「おお、起きたか」
 これが、毎朝の父の挨拶であった。
 食事は、いつも雑炊であった。サジで一口ずつわたしのロに運んでくれた。その度に「たくさん食べて、早く元気にならなきゃな」と元気づけてくれた。
 米が手に入らない時代であったのに、父はわたしのために、どこからか米を仕入れてきたに違いない。しかし、そんな苦労は一言も口にしなかった。
 父はリンゴをよくむいてくれた。ナイフからスルスルと吐き出されてくる皮が、魔術を見るようであった。こんなことは女の技術と思っていたわたしは、父の特技に興奮した。そしてわたしもしてみたいと父にねだったが、父はわたしにナイフを与えなかった。ひょっとしたら、自殺でもしかねないと考えたのではなかったろうか。
 いつであったか、隣室に、いわゆる別府の赤線の従業婦が盲腸炎で入院してきたことがあった。付添いにきた仲居のお婆さんと、父はいつしか顔馴染みとなった。ある時、わたしの部屋を訪れた彼女は、なんと思ったか、わたしに
 「お母さんはいないの」
 と尋ねたのである。不審な思いをしながら、
 「いるよ」というと、今度は
 「あんたのお母さんは継母かえ」と聞いてきた。
 わたしは返答に困った。継母であるわけはない。そんなことを考えたこともない。しかも、赤の他人からそんなことを聞かれるゆえんもないし、答えねばならないいわれもない。わたしは口をつぐんで答えなかった。

 「お父さんばかりがあんたん面倒を見よるから、お母さんはおらんのかと思った」
 と、その婆さんはその理由を説明した。
 そういえば、母はほとんど病室に来ることはなかった。家庭を維持するために、そんなゆとりはなかった。赤貧所帯の上に、病院の支払いが重くのしかかっていたに違いなかった。
 父は病院を居所とした。ここで起きて、ここから月忌参りに行き、ここで寝た。飯を炊き、病人に食べさせ、糞尿の世話をした。一寸たりとも動かせぬ体のため、わたしはシビンを布団の側に置き、大便用のおむつを年中していた。糞尿の匂いが部屋にこもらぬように、父は気を配っていた。子ども心にも、恥ずかしさと申し訳なさの交差する毎日であった。
 年が明け正月がきても、わたしは寝たままでいた。
 外では、『泣くな小鳩よ、心の妻よ…』と岡晴男の歌が流行していた。この歌を歌う子どもたちの声がよく聞こえてきた。
 時々、外の道路で、よく小っちゃな女の子の泣き声がして、その兄らしいのが、
 『泣くな妹よ、妹よ泣くな、なまじ泣かるりや、兄ちゃんが困まる』
 と、慰めていた。病院の外には生活の息吹があった。
 わたしもひとり口ずさんでいたが、聞いてくれる相手もなく、ひとりぼっちの悲哀が身にしみはじめていた。友達や知り合いもだんだんと遠のいていった。
 父は大晦日も元旦の夜も病院で過ごした。文化も人情も社会も言葉もなにもかも、ただ父が唯一の社会との媒体であり、時間を越えた存在であった。学校を出て、中学の教師をしていた長兄が時々来ては、父に家に帰ることを懇願していたが、父はやはり病院を居所として生活を変えなかった。
 入院が三ヵ月もたつと、いいかげんに飽きがきていた。おそらくさすがの父も、先行きの不安と子どもの病状を危惧し始めていたに違いない。経済的にも行き語っていたはずである。
 そんな時、らちのあかない病状を一挙に転じるために、医師は父にペニシリンの注射をすすめてきた。
 ペニシリンはまだまだ高価な化膿止めの治療薬で、一般ではほとんど使用されていなかった。
 そうしたある日の深夜、階下が急に騒然となった。
 二階の病室では、様子の緊迫した雰囲気を察知してか、付添人が廊下にたむろして、ぼそぼそとするうわさ話が、病室にはいってきた。ピーンと張りつめた空気が辺りを凍らせるようであった。
 父は様子をさぐりに階下に降りていった。そして情報を仕入れてきた。
 盲腸の急患が戸板に乗せられて、たった今運び込まれたもので、患者は若い女らしいとのことであった。
 腹痛を訴えたその娘を、奥別府の東山地区から、屈強な男が夜を徹して戸板に乗せ、運んできたのであった。すぐ手術にかかった翌朝、みなの心配をよそに、手遅れで亡くなってしまった。盲腸が化膿して破れ、腹膜炎を起こしていたらしい。病院全体が重苦しい空気につつまれた、当時はそんな時代であった。
 ペニシリンの使用について、父はおそらくその金額とわたしの回復を天秤にかけたに違いない。そして、子どもの健康をとったのである。

 それは、四時間置きに注射することになっていた。そしてそれは始まった。
 その当時は、民主主義が急に花開き、権利の主張が文化レベルの代名詞と考えられた時代であった。患者にとって不幸なことには、その病院の看護婦が待遇改善を要求してストをうったのである。民主主義の発露であった。一説には、その違法性を指摘して、警察権力が介入し、全員が留置されたともいわれた。看護婦のいなくなった病院は、患者にとては、もはや消毒液の匂いと薄汚れた白壁で囲まれた牢獄にすぎなかった。陰気くさい病室での看護婦の持つはなやぎと希望は、もはやメフィストフェレスの犠牲となってしまったのである。
 市内の病院から一人の看護婦が徴用されたが、一人くらいでは、多くの患者に手がまわるはずもなかった。
 四時間置きのペニシリン注射は、結局不規則な処置となり、その効果をみないまま終わったのである。この不手際を訴訟するというような時代でもなかったし、父は寛大な人間でもあった。わたしはただ自分の不運を呪っただけである。
 病床に伏している間に、横に倒したまま微動だにしなかった左足は、大腿骨も膝の関節も、硬直し曲がらなくなってしまっていた。このままでは、よしんば傷が癒えても、歩行困難となろうという医師の診断で、関節を動かすこととなった。5ヶ月目に入った頃である。
 院長の体力では無理であったのだろう、当時インターン中であった長男が、苦痛に泣き叫ぶわたしを無視して、強引に関節を戻し、押さえ込み、真っ直ぐに伸ばした。リハビリも何もあったものではない。これが戦後当時の最良の方法であったのであろう。 そしてはっきりしたことは、左足がいつの間にか短肢となっていたことであった。骨盤で支えられた大腿骨の関節は完全に病魔によって破壊され、回復不能となっていた。傷の癒えるのを待って、関節をギプスで固定させ、もはや関節の役をしない方法で治癒させるしかないとの診断を医師は下した。それを聞いた父は目の色を変えて、健全な身体に復する治療法を懇願していたが、当時の医療技術では、それはせんないことであったのだろう。結局分かったことは、骨髄炎ということであった。
 あきらめた父は、わたしに「大人になっても、親を恨まんでくれよ」
 と、悲しそうな面持ちでポツリといった。子どもの一生を予見した、これが父の苦渋の台詞であっに違いない。
 三月になって、わたしの進級が問題となってきた。
 学枚では、三学期だけの欠席で年間卜−タルは不足しないし、翌年度は一学期間だけであれば欠席は進級可能という返答であったらしい。しかし、父は〈勉強についていけないから)という理由で、二年生をもう一度繰返すことを、わたしにだまって決定してしまった。
 これをわたしに伝えた時の父の表情もまた、苦渋にみちていた。しかし、わたしはそんな父の選択を、声を荒げてののしった。ひどいショックだった。
 一生走れない身体となった上に、落第である。この上ない恥辱はなかった。いままでいじめていた下級生と同級になり、しかも不具な身体をさらさなければならない屈辱は死ぬより辛いものであった。
 悲しみの日々が続いたある日、突然担任が見舞いにきた。  
  
 落第の報告となぐさめにきたのであった。
 わたしは先生の顔を見た途端、声をあげて泣き出した。世の中から疎外され、孤独にさいなまれ続けたわたしの、これがせめてものフラストレーションの代価であった。
 「おれ、船乗りになりたかったんや」
 わたしは布団をかぶって、しやくりあげながら訴えた。
 「船員になって、世界一周をしたかったんや」
 先生は、ふ−つと溜め息をつていから、
 「お前がのう。考えられんやった」
 と、ことばをひとつひとつ、くぎるようにしていった。
 「じゃけん、おれ数学をよう勉強しよったんや。兄ちゃんが航海士は数学ができにゃなれんといいよったから」
 長兄が戦争中、清水高等商船学校を受験した経験があった。今の東京商船大学である。その知恵がわたしを船長に憧着させていた。
 「意外やのう、船員のどこがそげえいいんか」
 「船長はかっこいいもんな、真っ白い服に金モールの肩章をつけて、腕にも金模様があって、帽子も真っ白でかっこいい。それに夜、太平洋の真ん中で北斗七星眺めたり、赤道で裸踊りをしたれり」
 戦争の幼影がまだ尾を引いていた。船員は海軍の近似値にあったのである。
 「だのに、おれは…」
 激昂して、ワーツと声が高まり、しやくりあげた。
 先生は黙ったまま、ひとこともいわなかった。
 同席していた父も、黙ったままであった。

 その年の夏、わたしは父の引くリヤカーに乗って、完治しないまま、退院した。
  


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