- 『二人同行』ということばがあるが、父の生涯は、まさに仏との同行者であった。
仏教との出会いは、貧困が媒体であった。
鄙びた村の、貧農の子に生まれたがゆえに、口べらしのための小僧入門であったにすぎない。そこは、国東、伊美村からの人生の出発であった。しかし、父にとっては、それが仏との出会いの契機を作った、非常に大切な宿縁であったようである。
ただ親の指図にしたがって、家を出て峠を上り、十数時間歩み続けた国東の山路越えが、父の一生を決定づけたことは、人の人生の不可恩議を象徴する数奇なドラマを見る思いである。
そして、涙して、小僧になることを語り明かし、峠までまた涙して見送ってくれた母親への思いは、八十年たった今でも断ち切れずにいるようである。
『此の世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つ事である』 (福翁心訓)
とするならば、仏を知り、仏に仕え、仏を広め、仏と共に歩み、僧職を生涯の仕事とし倦まなまた父は、法事でしばしば『父母恩重経』を読んだ。
- 「あわれはらから心せよ 山より高き父の恩 海より深き母の恩 知こそ道の始めなれ 子 を守る母のまめやかに 我がふところを寝床とし かよわき腕を枕とし 骨身をけずる哀れ さよ 美しかりし若妻も おさな子一人育つれば 花のかんばせいつしかに 衰えゆくぞ 悲しけれ 身を切る如き冬の夜も 骨さす霜のあかつきも 乾ける所に子を回し 濡れたる 所におのれふす 幼きもののがんぜなく ふところけがし背をぬらす 不浄をいとう色もなく 洗うも日々に幾度ぞや おのれは寒さにこごえつつ 着たるをぬぎて子を包み 甘きは はきて子に与え にがきは自らくらうなり 幼子乳を含むこと 百八十石越すとかや まことに父母の恵みこそ 天のきわまりなきが如し もし子遠く行くあらば 帰りてその顛 見るまでは 出ても入りても子を思う 寝てもさめても子を思う かみくしけずり顔ぬぐい衣を求め帯を買い うるわしきはみな子に与え 父母は古きを選ぶなり おのれ生あるそのうちは 子の身にかわらんことを思い おのれ死に行くそのあとは 子の身を守らんことを願う 寄る年なみの重りて いつかかしらの霜白く 衰えませる父母を 仰げば落る涙かな、ああありがたき父の恩 子はいかにして報ゆべき ああありがたき母の恩 子はいかにして報ずべき」
昔はよく幼い子が死んだ。そういった家に父と法事や初盆についてお参りにいくと、父は必ずこの経を独特の抑揚で朗詠した。親の恩を亡くなった子に語りかけたのかもしれないが、これを後ろで聞いている若い母親は、必ず泣いていた。
子ども心にも、親は子にとって尊く貴重な存在であることを、感覚的に察知したものであった。
父は、立派で幸せな一生であったといえるであろう。仏との同行の中で、潜在した父の信念は、母覿への思慕であったようである。父はお説教の中でよくその母を語った。貧農の厳しい生活ゆえに、親もとを手放さなければならなかった母親の苦渋が、ひしひしと父の言葉の中からわたしたちに伝わってきたものであった。その上、若くして世を去った母親であったがゆえに、いっそう母への供養の心が高まるのかもしれない。また、わたしの母は、父の入門した武蔵町蓮華寺の次女あったが、生まれて旬日もしないうちに、母親と死別している。だから、実母との思い出のないままに成長した。まさに《街角で指をくわえて》大きくなったのである。いわば、両親とも不運な成育歴を心の傷として、成長してさた。めぐまれない宿命と対峙してきたわけである。親を亡くすほどの不幸は子どもの頃にはない。
父はよくお説教の中で、『良弁杉』の話を語った。
農婦が野良に連れていったわが子を鷹にさらわれ、その子を求めて、日本中を旅する話である。数十年後、奈良で名僧聖者となったその子良弁上人が、乞食女となったその母と出くわすという筋である。
独特の抑揚をつけて語る父の話に、善男善女はいつでもどこでも涙を流したものである。
そして、わたしも、聞く度ごとに感動したものである。今考えてみると、おそらく父の心象の中には、幼くして離別せざるをえなかった母親への思慕と憧着、そして、仏の道へのきっかけを作ってくれた感謝の気持ちがあったような気がしてならない。
考えてみると、これらの宗教伝導の方法は、父や母が幼少期から宿縁の薄かった母親にたいする愛着や憧憬が心の中に常に潜在し、それが宗教伝導のポリシーとなって、顕在したような気がしてならない。父は自分の子たちにはやさしかった。わたしは父から一度も殴られた経験がない。 母はそういった父によく苦情をいった。
「あんたの子どもん時を考えてごらん。あんなに厳しいしつけや修行をさせられたのに」
父は小僧にいってからは、どんなに寒い日でも素足で通した。足袋ははかせてもらえなかった。お経を読み間違えたといっては、昼飯抜きであった。広い本堂や庫裏の掃除はもちろん、畑仕事子守などすべてが僧籍に入ったものの修行であった。兄弟弟子も多く、上下関係も厳しかった。
「わしの子どもん頃は、毎日寝床ん中で泣いちょった。だからあげな苦しみは自分の子にはさ せとうない」
が、母に対する答えであった。
しかし、わたしたちは、そんな父の思いは理解していなかった。それでも、父の毎朝の勤行が終る頃をみ計らって、ガバと起き、急いで寝床をあげ、部屋を掃き、廊下を兄弟で手分けしてふきあげた。それをしておかないと、雷が落ちたものだ。
わたしは父にお経を教わったことがない。いわゆるお経読みのお経知らずで、いつの間にか聞きよう聞きまねで、一通りのことは間に合うようになっていた。葬儀でわたす引導の文句も、小学生の時にはもう諳んじていた。
そういうことがあったからか、父はわたしをよく腰巾着にして、法事に連れまわした。わたしにとってははなはだ迷惑ではあったが。 おそらく父の思いの中には、自分の哀しい成育体験から、わが子だけには人並みの親子のつながりをもった長い歴史を構築したいという願望があったに違いない。両親との早い離別因縁から、自分もまたと危惧したこの世との早い別れが、もはや傘寿になろうとする人生を積み重ねるまでになってしまった。すばらしいことである。 これもまた、母親を思い供養を忘れない父の碩徳からくる長寿なのかも知れない。
母の命日に思う
逝きて早や五十路も過ぎし母の日に
思いで深し浮かぶおもかげ
(輪譽正教・昭和四十六年五月)
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