仲人狂い
   


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 『仲人狂い』ときめつけるのはやや酷であろうが、父は壮年期は仲人好きな人であった。子どもの頃のわたしには、そう見えた。
 わたしの学生時代、
 …でしゃばりお米に手を引かれ、愛ちゃんは太郎の嫁になる…
という歌が流行ったことがあったが、その時、“でしゃばりお米″を父に置き換えて、私家版を作詞し、ひとり苦笑した記憶がある。真実はそれはど仲人が好きであったのたろうか。
 幾組まとめたかしれない。結婚式は日常茶飯事であった。
 これも仕事柄の付帯事業であったのであろう。
 仲人はだれでもできるものではない。社会的地位と人間的信頼と識見と、そして押し出しのよさまで必要になるものではあるまいか。とこのように月並みな分析をしてみると、はたして父はその適投であったか、はなはだ疑問である。むしろわたしの方にこれらの仲人の条件が、などと一寸きどってみたくなるが、いまだに一組しか頼まれたことはない。父をいっこうに乗り越れそうもない。人物の太さの違いなのだろうか。
 さて、もっともらしい美辞麗句で胸をはり、新郎新婦を紹介する父の役割は、葬台上の千両役者であろう。舞台に座る若い男女は、人生たった一回の出番しかないのが原則であるから、少々
 大仰なおだてに乗るもよし、けばけばしい虚飾に身を包むも許されよう。しかし、仲人は何回と限りなくロングランができる。「大根」でもそのうち[名優」になってくる。人生の役得かもしれない。それもよしとしょう。しかし、その度に、「雄ちょう」をさせられるわたしにとっては、大変な子役を勤めねばならず、たまったものではない。
 着慣れない借り物の羽職り袴をつけ、人前で顔を赤らめながら、震える手で三三九度の片棒を担ぐのは、決してたのしく楽なものではない。「寺の小僧姿」といい、父の事業の犠牲となる「羽織り袴姿」といい、考えてみると、わたしの子ども時代は”児童憲章”に露骨に違反しても当然だという教育のまかり通った、古き悪しき時代ではあった。
 だから、父が見合いの話しを持ち込み、我が家に若い男女を連れ込んだ時には、わたしはゾッとしたものだ。これも寺の子に生まれた“可愛いい妨や”の宿命であったのだろう。
 そういったお見合いの中で、特に印象に残ったのが一つある。
 当時わたしは十四歳。運悪く病をえて、市内の某外科病院に入院中の身であった。大きな手術をし、六畳間の薄暗い部屋に身動きさえできず、ただ寝たきりの思春期であった。
 父はその病室を見合いの場にしたのである。わたしの看病のため、父はこの病室を自分の生活の居所とし、ここで食事をとり、ここから檀家参りに行き、ここで寝た。わたしのために、家庭での生活を犠牲にしていたのである。当時は、喫茶店などという気のきいた施設があるでなく、見合いの晴れ着などなくても通用する、貧困が常識の時代であった。
 部屋の半分を寝床とした病室に、その中年の男女は対座した。父はそそくさとお茶を出している。わたしは顔を反対側にそむけ、お客の顔を見ないように心を配ったが、さぞかし場違いな奇異感を二人は持ったにちがいない。
 「妻を一昨年なくしました」と、男の声。
 「わたしも、主人を三年まえに亡くしまして」と、か細い女の声。
 「お子様は」
 「とうとう、持たずじまいでした」
 「そうですか。それではお淋しいでしょうね」
 「はい、それで自立しまして、手に職をと思ってまいったのですが」
 「どういうお仕事をですか」
 「お私ずかしいのですが、美容店をと思っていたのですのよ」
 女の声に段々と自己主張が強くなってきた。
 わたしは、気付かれないように、そっと首を回した。そして、布団に顔を隠すようにして二人をのぞき見した。そこには、ごま塩頭のオジサンの後姿が見え、黒っぽい着物をはおったオバサンが、やや下向き加減に語っていた。
 わたしは、お見合いは若い男女がするものと認識していたが、今そこにいる二人は、何か人生の軌道を外れた日陰者に見えたのであった。不恩義なものを見る思いであった。
 半年後、わたしは退院し、人並みではないが、通常の生活にもどっていった。
 ある時、父にいわれて、蓮田町の朝見川ぞいにある、若林家に月忌参りにいった。そしてそこに、かって病室でお見合いをした中年の女性をみた。彼女はわたしをあの時の病人と気付かない様子であった。
 挨拶をしていると、外から帰ってきた中学生くらいの女の子が、「お母さん、行ってきたよ」
 と、そのオバサンに語りかけたのである。その時、わたしは天の啓示を受けたのである。
 <あの時のオバサンは、やっぱりあの時のオジサンと結婚したんだ>と。
 <あの時、オバサンは子どもがいないといっていたから、この子はそんならオジサンの子なんだ>と。
 そして、おかしくなった。あの時の二人の台詞がよみがえってきたからである。
 その時は、粗末ななりわいの家での、質素な着物姿のオバサンであったが、<父は幸せを、この家族に与えたのだろうか>と、子ども心に思ったことであった。
 もしお二人が生きていれば、もうとっくに八十歳を越しておられるにちがいない。
 さて、仲人はありがたい芝居の立回り役者であるが、いったん悪役に回ると始末が悪い。仁木弾正を演じることになる。
 夫婦仲に風穴があき、それがふさがらなくなると、仲人の二回目の出番がやってくる。
 感情がこじれ、自己主張と相手への非難が強まると、その火消し役は大変で、父は仲人に多忙であった分だけ、その始末も大忙しであったようである。
 おそらく、父の人生の中で一番嫌な役回りであったに違いない。見合いでの、あるいは結婚式での、あらぬ美辞麗句が<巧言令色鮮なし仁>で、そのつけがまわってくるのであろうか。わたしは子ども心にそれを見ているので、仲人と酒だけは大人になっもつつしもうと、高校生の時に、けなげにも決意したのである。
 わたしが中学生になりだちの頃、このような出来事があった。
 時代は、大東亜戦争がやっと終り、空襲の恐怖も教師からの無体な鞭もすべて瓦解し、まさに平和と民主主義の大安売りが喧伝されていた。
 食料難は日本全土に熾烈を極め、生きのびるために、人道は地に落ちていた。
 国外からは、かっての植民地からの引揚者は陸続と本国の土を踏み、軍人は尾羽打ち枯らし、栄養失調の身をさらばえ、名誉も統率も忘れて、ただただ夢みた日本へと帰ってきた。
 歓楽地別府は、進駐してきた米兵の格好な遊興場と化し、夜の蝶は粋なジャンパーの異国の若者相手に、やっと口を糊していた。わたしより三つ歳上の近くのパン屋の娘は、いつの間にか、春をひさいでいた。
 家の前の共同浴場にそれらの女が出入りして、口さがない主婦たちは、自分の娘に性病がうつることを聞こえよがしに、心配しあっていた。脱衣箱にはシラミが行列をなしてもいた。これらが、わたしの小学校を卒業した頃から始まった、敗戦維新時代の世相であった。
 その日は、わたしの家族がやっと睡眠にはいった時間であった。
 玄関を激しく叩く音、続いて
 「和尚さん、起きちょくれ、大変じゃあ」
 けたたましい声。おそらく近所近辺も目を覚したに違いないほどの、緊迫した状況であった。父は寝間着のまま、玄関へ足を運んだ。
 「何が起こったんや」
 「すぐ来ちょくれ、工藤さんがあばれちょる」
 「何が理由なんや」
 「奥さんのこっちゃ、出刃包丁を振り回して、殺すちゅうてあばれよる」
 「何や、あげえ言うちょったにい」
 いいつけに来た人よりも、父の声の方がうわずっている。
 やがて、父は着替えて、使いの人とあわただしく、出かけて行った。
 これは戦争の悲劇であった。
 戦争も終りの頃、奥さんの所に主人の戦死の公報がさた。奥さんは子どもを二人かかえて、途方にくれたわけである。この夫婦は父が仲人で結びつけただけに、父も心を痛めていた。こういうことは、戦時中のよくある話であったが、しかし、その後が変っていた。
 当時、その夫婦は長屋住まいであった。いわゆるハーモニカ長屋で、何所帯も一棟の長屋に住んでいて、まさに、落語の熊さんや八っあんの出て来そうな賑やかな住宅環境なのであった。職人業も種々雑多で、こういう住人はみな憎が深く、面倒見のよいのが取り柄であった。その葬儀には、わたしも父に連れられて行った。位僻もきちっと出来た。
 ところで、主人を亡くした奥さんに同情した隣の住人であったオジサンとこの奥さんは、いつの間にか、人生を共に送るようになっていったのである。その隣人は身体に障害があり、兵隊にとられないまま、独身でいた。それで都合がよかったのであろう。
 ところがご主人は、戦後シベリヤに抑留され、音信不通のまま、五年後にやっと憧れの日本、そして家族の所へ帰還したのである。
 この二つの家庭をどうするか、父はその狭間で、大変苦悩していた。
 一番の犠牲者はその主人より、むしろ奥さんであった。その時は、すでに三人日の女の子が生まれていた。これがまた奥さんを苦境に追い込んだにちがいない。選択をせまられた彼女は、結局、現在の旦那を取ったのである。
 これがことを複雑にした。旧主人は板前さんであったが、いったん諦めたものの、やはり断腸の思いであったのだろう。それが「出刃包丁事件」に発展したわけであった。
 その夜、相当の時間が経過して、ふと人声に目が覚めた。
 もうろうとした意識の中に、父の声が聞こえてきていた。
 「わしが責任をもって、必ずいい嫁さんを探す。だから、何度もいうが、もう諦めなさい。奥さんの方がもっともっと苦しんでいるだよ。みんな戦争の被害者なんだから、過去は捨てて、再出発する以外にないな」
 「今、とってもいい人がいるから、明日にでも紹介しょう。人を恨んだり、まして殺すなんて、もっての他だよ」
 「あんたは一度は死んだ人間だよ、死んだつもりで、新しい家をつくろうや」
 父の声が大きくなったり、小さくなったりして、わたしの意識の中に侵入してきた。父は偉大な宗教者であった。説得力ある仲人であった。
 いつの間にか、戦争談義がはじまったようであったが、わたしには無縁な話題であった。意識もいつか消えていった。
 まもなく、工藤さんは、父の仲人で、わが家の檀家の方で、美容師をしていた人と結婚した。背丈のある美しい人であった。父は約束をはたし、うまく戦後をまとめあげたのであった。新しいカップルには、二人の子どもが生まれたが、今はおそらく、たくさんの孫に師まれているのではあるまいか。
 人生はこれだから楽しい。その楽しさ創造の手助けをしてきた父は、もつと楽しく素晴らしい役者であったようだ。
 


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