消えゆく日々の中で    


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4.ミミズの煮汁 8.イチジクの頃 12.あとがき

 (一)

 平成五年二月二十三日夜、不幸な事故は発生した。
 当日、父は知り合いの老女の通夜に参列した帰途、自宅前一メートルの路上で輪禍にあったのである。
 春はまだ遠い、寒い雪まじりの風の強い夜であった。
 別府流れ川通りの向かいでタクシーを降りた父は、そのまま十メートルの道を横切り、自宅へ急いでいた。
 黒の衣の上にコートを羽織り、茶人帽をかぶった常套スタイルの暗闇に吸い込まれる姿であった。
 祈しも、山の手から、寒さに襟を立て、降雪にすくんでバイクで下ってきた六十四歳の男性は、父の存在に気づかない状況のまま、衝突した、月のない八時頃の夜であった。
 父は卒倒し、頭部を路面に叩きつけられた。血は潮のように流れ、道は朱に染まった。ただちに救急車で、原にある総合病院に運ばれ、第三病棟脳外科に入院した。
 当夜、十二時前、妹夫妻より連絡を受けたわたしは、ことの重大さにはまだ気づいていなかった。自転車で転んだくらいの事故としか考えていなかったのである。
 事実は重大であった。
 頭蓋骨は割れ、路面に叩きつけられた反動で、脳の内質は前頭部に動いて内出血を起こし、この傷が命取りになる恐れがあり、その夜が生命の危機の山とされたのである。
 その上、助骨にはひびが入り、身体はどこもかしこも打撲時にできた傷で内出血をおこして、紫色に変わった無惨な姿となり、衣服にこびりついた血が残っていて、事故のひどさを物語っていた。

 平穏だった日々が、突然現れた障壁に進行をはばまれ、わたしたちは驚きと動転と喧操(けんそう)の中で、小刻みに不安の時間と休力の消耗に包み込まれることとなっていったのである。
 入院当日、はっきりしていた父の意識も、時間の経過の中で混濁を始めたが、身体だけはひたすらベットから逃げ出す行動で終始した。あのか細く小さい体躯のどこにこのような力が潜むのか、と思われるはどのベッド上の闘争であった。
 父は平生、入院を極度に嫌っていた。これは老人共通の心情なのであろう。人生を積み上げ生活体臭の生きている自分の家から追われ、異質な社会の中で不安と不満と傷心の時間を過ごすのは、いたたまれないことなのであろう。だから父は、今までも幾度か入院先を抜け出したり、トラブルを起こしたりの前科をもっていた。父は、入院中は精神錯乱して、無意識の中での異常な行動となることが多いようであった。
 だから、今度の入院にも、同じ轍を踏む不安が始めからあった。そして、現実は、その通りの結果となって現れたのである。
 集中治療室に入れられた父は、行動を束縛され、おむつをつけられた。おそらく生まれて初めて体験する屈辱であったに違いない。その感触を嫌ってか、無意識の中で足踏みし、手を伸ばして、はずしにかかった。毛布を払い除け、点滴の器具をもはずした。
 排便を催したときは、かならずベッドの上に起き上がるしぐさをし、看護人を困らせたが、この本能的行動の中に、父の強靱な生活力と自尊心をみる思いであった。大声で便所に行くことの不可能なことを愉したが、意識の朦朧とした父にはとどくすべもなかった。
 すこし意識が回復し、集中治療室から個室に移され、本格的に看護のために子供たちが交替で徹夜看病を始めると、父はひどく用便に自分の力で行きたがるようになった。それが出来ないことを告げ、起き上がろうとする身体を押さえつけると、その度に父は
「なぜ、そげえ(そんなに)いじめるんか」
 と、ことばにならない声で不平をこぼした。
 夜中についうとうととまどろみ、物音でふと自覚め、毛布がまくれておむつのはずれた姿の痩せ細った二本の足を見たとき、つい感情的になってどなったりした。すぐ、大人気ない自分の短絡的な感情に情ないおもいをしたのも幾たびだかしれない。老人看護のきびしさを体験的にかいまみた貴重な感情の葛藤であった。
 元気印の典型で、ただ一途に働きつめ、身体を動かすことだけが生がいであった父の容姿はもはやそこにはなかった。目をつぶし、顔に深いしわを寄せ、苦汁に満ちた修行者の風貌は、今までにはなかった病人の父であった。混濁した意識の中で、足をばたつかせ、必死になって寝返りをうち、起き上がろうとあがいている父の姿は、人間の原風景を見る思いであった。そこにはうらぶれた老人の悲しい現実があり、父親像の崩壊があった。
 わたしはたまらなくなり、おむつをはずし、父を抱き上げ、便所へと運んだ。密かな冒険であった。三十数キロしかない小躯も、なえてずしりと重量がかかり、わたしの体力には相当こたえるはどの労働であった。しかし、自らの力で便器に座り、用を足す表情は晴れやかで、こんなところで骨肉の情愛の深さを肌で感じとったことであった。
 老いた身体の骨盤は異様に尖り、つやを失った皮が骨を包み込み、まさにみるに忍びないミイラの姿であった。これも人の生の悲哀なのであろうか。老いるということは、なぜこのように悲しいことなのか。まもなく訪れる自分の姿の表微として、そこに父がいた。人間の尊厳など画餅でしかない思いであったし、この思いがまたわたしに悲しみをさそうものであった。

 昏睡(こんすい)状態となり、自己意識を失ったとき、人は時間の経過の中で人生を還元し、積み重ねてきた歴史を喪失してしまうのであろうか。
「せりかわさん」 「おじいちゃん」
 と、耳もとで看護婦さんが甲高い声をかける。
 毎回の検温時の日課である。対応内容が病状のバロメーターであり、わたしは返答如何に耳を集中して一喜一憂する。
「ハー」と声にならぬだみ声で、父は応じる。
「お名前は?」
「セリカワ ショウキョウ」
「お年は?」
 との問いかけには、一瞬返答が逡巡(しゅんじゅん)する。
 もう一度、看護婦が高いオクターブで声をかける。すると反射的に年齢が返ってくるが、九十歳と答えたことは殆どなかった。
 ある時、同様に、
「おじいちゃん、何才ですか?」の問いに
「サンサイ」と答えた日があった。
 わたしは奇異な思いでそれを聞いていた。
「サンサイ」とは「三歳」であろう。父が看護婦をからかっているとしか思えなかった。
 ところが、続いての
「お住まいはどこですか」
 の問いかけに、父は
「クニザキマチ、イミ」
 と、即座に答えたのである。心なしか表情に笑みがあった。
 このときわたしは動転した。おそらく父の思考力が空洞化し、その空白の中で、自分の歴史が逆回転し、幻想が小児に回帰したことを、わたしは感覚的に察知した。その地(国東半島の国東町...)は、父が誕生し、最愛の母親と過ごした、子供の頃のユートピアだったのである。
 見舞いに来ていただいた人の識別もできなかった。それどころか、看病するわたしたちの名前さえ記憶の中になかった。悲哀感よりおかしみがこみあげることがしばしばであった。考えられない事態が父の脳の中で起こっているという恐怖感がひしひしとわたしたちの心に迫り、いまさらのように交通事故があたえたダメージの大きさに心を痛める毎日が過ぎていった。
 病状の起伏の中で、わたしたちは当番を決め、病室に詰めて看護した。わたしたち家族が月・水・金、妹夫妻が他の日々をとの取決めができた。ちようど兄嫁が国立病院で末期ガンで呻吟していたために、兄は父への看病どころではなかった。おそらく兄は、妻と父との重病人のはざまで、心身を消耗したに違いなかった。やつれゆく姿が見るも悲惨であった。
 夜を徹して看病することは、容易なことではなかった。始めのうちは強い使命感で緊張していたが、病状がいっこうに好転せず、日が重なる中で、疲れと睡眠不足で段々いらだちがつのっていった。最初は妻と二人で交互に仮眠をとりながら看病した。しかしそれが長くなると、わたしだけで夜を担当し、妻は昼間病院に詰めるという方法をとった。やがて、昼間は加害者の奥さんが看病してくださることとなったが。
 老人医療や寝たきり老人の看護が、現代の最も今日的な話題となっているが、わたしはそれを人ごとととらえていた。老いたわたしの両親は、そのような不安を与えないほど健全な生活を営んでくれていたからである。しかし、こうして病人となり、その看病で体力に限界を感じ始めると、切実な問題となってきた。
 徹夜同様の朝、別府の病院から大分の勤務に向かうのは、わたしにはさすがにこたえた。妹夫妻はもっと過酷であったにちがいなかった。彼女ら家族の父への思いは、両親と同居している分だけ深かっただろうし、また彼女の長男が大学入学式までの余裕を、祖父の看病に献身してくれたことなど、好都合な面はあったが、父に献身した彼らの家族には感謝しきれないほどの思いであった。
 わたしはひたすら仏に念じていた。
(父を、今一度、回復させて下さい。動けなくてもよく、寝たきりであってもいい。せめて世間話の出来る頭脳と読経の出来る声を返していただければ満足です)

 何よりも不快だったのは、病院の対応であった。
『高齢だから』『もう九十歳にもなっているから』『なんといっても年をとっているので』 これが父に対座する病院のコンセプトであった。
「だから回復は遅れる」 「治療方法も慎重を期さなければならない」 「あまり期待はできない」
 これらが治療の根底に見え隠れしているように、わたしたちにはみえた。それが第一の不満であった。
 世の中の常識を超える体力と信念と行動力をもった父を、頭ごなしに老人扱いする病院の態度に、わたしたちは腹立たしい毎日であった。これは身内の偏見と管見であったかもしれない。しかし、父がもつ気カや自然治癒力で危機的発症を押さえ、奇跡的回復を幾度も経験しているわたしたちには、今度の不慮の傷病も自カで乗り切れると信じていた。
 第二の不満は、医師の対応であった。
  病人の病状を尋ねると、
「ひとりひとりに説明していると大変だから、責任者を決めてその人を通して説明するので、その人から聞いてくれ」
 であった。多忙な病院であろうし、多忙な医師の業務とは思いながらも、なんとも冷たい対応であり、その不快から、以後一切聞かない、いや、聞けない日々となった。
 私は、一日の勤務を終えて、大分から別府の病院へ今日の病状の変化を憂慮しながら駆けつける日々の中で、病人の様子を少しでも知りたいのは人情であり、同時にに患者の家族の権利でもあるのではあるまいか。
 憤慨したわたしと妻は、病院長への直談判を決行した。
 電話でアポイントメントをとった後、医院長室で対座したわたしたちは、率直に不満を伝えた。
 大学教授にも似た風格の病院長は、なんらけれんのない人らしく、柔和な笑みをたたえながら面接に応じて下さった。
 医療に携わる関係者の多忙なこと、マニュアルを主体に治療すること、あるいは医師の個性も尊重せねばならないこと、科によっての独自の治療システムを持つことなどを説明した。いわば病院長の命令や指示が病院管理に必ずしも絶対権威のないことであった。予想していた通りの解答ではあったが、誠実な病院長の態度に心を魅かれ、現実への不満も忘れて、妻と共に安拷したことであった。
 そして翌朝、早々病院長はわざわざ父の部屋を回診して下さったのである。
 こころなしか、以後しばらくは、医師や看護婦の対応に誠実さが見られたように思えた。わたしの身勝手な偏見かもしれないが。
 それにしても、看護婦のこのような患者に対する扱いのうまさには驚くほどである。てきぱきとマニュアル通りに処置していく。おむつ替えも検温も点滴の器具の取り付けも、機械的にすばやく処置していく。白衣が感情を持たず、能面のまま患者のもとを通り過ぎて行く。そのような毎日の中で、変化のない時間だけが進行していった。
 父の腕は点滴の跡で赤黒い紫斑が面となって広がり、それが両足首に移ったあと、しまいには首の横の肩に点滴の針が刺された。もっともここは刺すというよりも切開して管を突っ込んだという手術であった。父があばれるので、点滴の針がはずれたあげくの終着駅であった。悲惨な身体であった。肉親を見る子として堪え難い悲しい武装であった。
 その命綱も、わたしの看病の夜、ちょっとわたしがまどろんだ間に、父は引っこ抜いてしまった。気付いたときは肩から血を流し、薬液で布団はずぶぬれであった。しかし、これが父の病状を好転させる契機となったのである。
 点滴からの高蛋白栄養液注入を中止したとたんに、父は食欲を示し始めた。同時に意識もうつつのものに変化してきた。人間への回復が始まったのである。
 その復権のスピードは見事なものであった。父のタフな生命力はすごい感動であった。思考力は一週間くらいの間に正常にもどっていった。食事も自分でとれるようになった。お経もわたしと一緒に読めるようになった。ただ、脳がどのようなダメージをまだ抱えているかが不明であり、主治医は回後のサインをまだ出ししぶっていた。
 縫った頭の表皮はもう完全に治癒し、割れた頭蓋骨の骨折ももう問題を抱えていなかったはずであった。ただ、地面に叩きつけられたショックで動いた前頭部分の炎症が癒えているかどうかが問題であった。脳内の異常はいつ発症するか不明であるし、後遺症の怖さが見えず、交通事故処理の診断書には(完治不明)となっていた。
 しかし、段々とCΤもMRIでも、落ち着いたいい経過を示すようになっていった。
 三月十五日、父は、兄の車に乗って退院し、自分の部屋の畳の上の生活に落ち着くこととなった。
 ただ父は、二月二十八日に兄嫁が逝去し、その葬儀の終わっていることはまだ知らなかった。
とくなった日のその時間に、父は幻覚の中で兄嫁の名前を呼んだそうである。当夜看病していた甥が、その声を聞いたのであった。兄嫁の病状を危惧し、その回復のために父は長泉寺の法要で、薬師如来に回復祈願をしたばかりであった。おそらくその情念が兄嫁に通じたのではないかとわしたしたちは噂したことであった。
 しかし、その死を、だれがいつ父に伝えるかが、わが家での大きな懸案となっていたのである。

 家に帰ってからの父は、徐々に回復していった。日中は殆ど寝床に臥せってはいたが、排便はたんすの取っ手で身体を支えて立ち上がり、壁づたいに自分の足で歩いた。
 やがて、朝晩の勤行も勤めるようになった。時には居間のレンタン火鉢に手をあてながら、蕗(ふき)の皮剥きの加勢もするほどになった。
 元気になっていく父を母と妹夫妻に託し、わたしの足もやや遠のいていったが、それでも三日にあけず、父を訪ねた。そのたびに布団の上に正座し、歯の抜けた言葉にならぬ声で、楽しげに語りかけてきた。そして口癖のように、
「面倒をかけたなあ。すまんかったなあ」
 と、目をしょぼつかせた。
 わたしは幸福感に浸ることができた。仏に心から感謝することができた。
 そして、オーストリアの劇作家グリルパルツァーの
『子どもたちに囲まれて人生の最期を迎える人を、わたしは幸福だと思う』
 ということばを、身にしみて感じ始めていた。
 ただ、父に秘密にしていた兄嫁の死をいつ知らせるか、だれが知らせるかという懸案は未解決のままであった。当の兄はわたしにいわせたかったらしい。しかし、わたしは拒否した。このような大役はわたしには荷が重すぎたし、父の心情と受けるであろうショックを考えると、わたしはあまりにも小心者すぎた。結局、兄が葬儀の様子をとった写真をたずさえて、その詳細を四月十四日に、伝えたのである。
 父は、葬儀の写真を見て、「立派な葬儀だったなあ」とぽつりといったと云う。さほど動揺はなかった様子であったが、内心はどうであったろうか。覚悟をしていたことなのか、それとも人間の情緒が麻痺してしまっていたのか、
推し量る余地もない。
 その夜、感想をもたらさないまま、再び倒れたのである。
 

 (二)

 平穏で幸せそうにみえた生活も、瞬時にその仮面がはがれ、突然、再び病床に病魔が牙をむいたのである。
 四月十四日、夜十二時頃、母は寝床につこうとして、布団の上に血まみれになって倒れていた父を発見した。大仰な血の海の中に顔を横にし、うつぶせに倒れている父を見て、母は吐血したと一瞬考えたそうである。
 救急車上の人となった父は、前回の病院に再び帰っていった。
 頭部の頂上付近に擦過傷を負った父は、深夜の病院でただちに手術を受け、傷口は六針で塞がれた。
 しかし、翌朝、CTで脳内検査をし、レントゲンで胸部撮影を受けた父は、前回の事故によって前頭部にみずがたまり、今後、老人性痴呆症にすすむ可能性のあること、それ以上に、肺が炎症を起こし重体であることが明らかとなった。生命にかかわる一刻を争う危篤に近い状態であった。
 ここ数日、発熱気味で身体が重く、呼吸が苦しいと訴え、その日は他の医師の往診をいただき手当てを受け、薬をいただいたばかりであった。
 脳の異常と肺炎との相乗効果で、おそらく、夜、用便中に立ち眩みが起こり、便所の壁と床に頭を打ちつけ、意識が朦朧とした中で、寝床まではって行き、そのまま意識を失ってしまったのではないかと推察された。
 とうとう最悪の状態がきたことを、わたしは連絡をうけてから直感的に悟った。大病のあとの重体では、いくらタフな父でも限界があろうと感じたからである。
 そして、もしこれが最期となるならば、畳の上で死なせたいと念じた。
 翌朝かけつけたときは、まだ意識があった。彼独特の負け惜しみからくる気恥ずかしい笑みがあった。
 ただちに、鼻に管がはいり、酸素の吸入が始められた。
 今度の再入院の原因がどこにあるのかは、わたしにはわからない。退院してからの父は、いわゆる老人性痴呆症のはしりが見え始めていたらしく、夜中に過去の思い出に原因する奇異な行動が時々あったり、時間に関係なく突然仏壇で読経を始めたり、昼と夜との逆転生活になり始めていることなど、同居している妹から、心を痛める情報が入ってきていた。
 その度に、わたしは父を訪ねて歓談したが、そこからは危惧する材料は発見できなかった。部外者は出来事の皮相しか理解できず、生活を共にする者ほどの生活実態はなかなか垣間見ることばできなかったのであろうか。父も意識して自分の本性を見せまいとかまえてかかったのであろうか。わたしの目にはすべてつじっまが合っているように感じられたが。
 もしその異常が事実とするならば、痴呆症的言動が交通事故に起因するものなのか、年齢からくる自然現象なのかは、わたしには分からなかった。ふと、医師のいっていた(三ヶ月間は再発の恐れがありますよ)
 という診断が思い出された。そして、痛々しい気持ちとなると同時に、父の周辺に今後起こるであろう生活の大きな転換が、つかみ所のない重みとなってのしかかってきた。いよいよ来たなという思いであった。そのやさきの再入院である。正直いって、動転した。ただ、病気が肺炎と聞いていたので、前回ほどの緊張感はなかった。しばしば父が体験しその度に回復した病気であったからである。
 入院した夜、妹が付き添った。高圧酸素室での一夜であったが、ふと油断したすきに、父はベッドから落ちた。おそらく用便に自分で行こうとしたことが原因であったにちがいない。
 そのことがあってから、父は幽閉の人となった。両手両足をベッドにくくりつけられ、父にとってもわたしたちにとっても、最も苦しく忍び難い屈辱の生活が始まったのである。
 数日間は、無意識の中で抵抗し、それをはずしにかかったが、手首に傷をつけるだけであった。空しい抵抗にすぎなかった。手首はみにくく腫れ、不気味な色となった。患者の動きを止めるため、精神安定剤が投薬された。その頃から父は完全に無反応な物体と化していった。
 名前を呼び、腫れた足をさすっても、何の反応もかえって来なくなった。
 老人ゆえに気力がなく回復力に欠けるためか、ただひたすら医療機器が身体のあちこちで跳梁(ちょうりょう)した。それは人を翻弄する龍のうねりにも似ていた。
 血液中の酸素不足を補うために、口に突っ込まれた大きなビニール管を通して、機械的にふくらむゴム袋から酸素が送りこまれていた。
 腕から伸びたコードは血圧計につながり、刻々と変化する脈拍と血圧を、電子音と共に、数字で示していた。
 右足の親指は紙ばさみのような器具で挟まれ、血液中の酸素量が計られていた。
 首の横からは栄養液が点滴の管を伝って、規則的に体内に送りこまれていた。父の姿は、機械に占領され人格を奪われたサイボークであった。
 最も恐れていた末期治療の現実が、ずかずかと目の前に踏み込んで、重く父にのしかかり、例外と思っていたわたしの血縁も、現代医学の先端の流れの中で、見事な死への行進を進めていたのである。
 そこには人口に膾炙(かいしゃ)され、映像化された集中治療室とそこに使用されている医療機器があり、わたしの父が横たわりさいなまれていた。
 そういった光景であった。
 わたしは一刻も早く、父をこの怪物から奪い取り、暖かい畳みの上のしとねにかえしてやりたかった。機械に支配され人格を失い、意識もなく目も開かない床ずれの肉体のまま、いつまでも呻吟するよりも、奪い取って一時間内にその命脈が絶たれても、それが人間らしい人生であり、それが尊厳ではないかと真摯に考えた。
 仏門に入り、人に道を説きき、全人生を仏に託したこれが結果なのか。自己を犠牲にして子ども五人を育て上げ、人生の夕暮れとなって受けるこれが褒賞なのか。
 この思いは兄にもあった。いやもっと厳しいものであった。父を直ちに退院させ、結果は天にまかせる以外にない、という考えを幾度か医師に伝えた。わたしたちは医療機器の奴隷よりも、人間としての尊厳死を選択することを善としたのである。おそらく父に意識があれば、わたしたちの道をよしとしたに違いない。これは確信であった。
 今度の主治医は内科の呼吸器科の、まだ若い専門医であった。病院の方針であろうか、今回もひとりひとりの質問には答えられないと拒否した。質問するとあなたはどういう関係の人かと訪ねられた。不快感がつのるばかりであった。
 途中で回復の状況を確認するために、酸素吸入器を外したことが幾度かあったそうである。すでに呼吸を機械に頼っているために、独立しての呼吸能力がないといわれ、父の死を意識したこともあったし、順調に回復中と期待をもたされたこともあった。
 病床を訪ねると、上半身素っ裸のまま寝かされており、看護のずさんさに腹を立てた兄が、肺炎患者を殺す気かといきまいて抗議したこともあった。ただ血圧計は機械的に数字を示し、脈拍はリズミカルに音を立てていた。生命の証人であろうが、その音は、何の感情もない冷徹な死へのさそいでもあった。
 見るたびに疲弊し、生きた骸となっていく父と会うたびに、わたしは諦めに似た無力感にうちひしがれていった。そして、ますます尊厳ある死への欲求がつのっていった。
「ただちに、命が消えてもいい、父を家に連れて帰りたいが、許可をいただけませんか?」
 面会を申し込み、やっと会っていただいた主治医へわたしの心情を訴えたが、
「希望をもって治療しているので、わたしを信じていただきたい。」
 であった。しかしわたしには信ずるものが瓦解していた。
 やがて、ベッドにくくられていた手足は解放された。もはや、くくりつける意味がなくなったのである。時とともに身につけた医療機器を自分の手でとりはずす気迫も余力も消え去ってしまった。もちろん、呼かけに反応する微力さえなく、ただ酸素呼吸器だけが生命を刻んでいるだけとなった。そして、手や足にむくみが出始めた。
 三年前、こういうことがあった。
 やはり老人性肺炎を患い、床で苦しんでいた深夜、仏間に座している廬遮那仏が、開眼し、頬をふるわせ、父に向かって重厚な音声で、
  《あなたの病は必ず直るし、九十歳までは何があろうとも長寿できるから、安心して治療に励みなさい》
 と告知したそうである。父は感激し、うれしさのあまり人々に吹聴した。わたしはそれを仏の慈悲と信じた。父であればありうることであると。現にそのことがあってから、すぐに全快したのである。
 今、ベッドに臥す父の顔を眺めながら、そのことを思い出していた。そして、諦めににた空虚感にさいなまれていた。仏の約束した九十の歳が、すでに過ぎているからである。これが父の限界なのではないかと。
 そして自問自答していた。
〈もう九十年も生きたじゃないか、わたしも父が九十歳まで生きることを祈念していたが、もうその重みも達せられている。これ以上望むことは仏への誓願を裏切ることになるぞ。もう我が儘をいうまい)
 わたしたちが病状について病院に説明を要求した結果、兄弟全員で集まってほしいとの連絡がきた。五月十三日であった。
 わたしは母を連れて病院に向かった。日頃冷静な母も、さすがに深刻な表情でうちひしがれていた。わたしは父の回復をもはや信じていなかった。というよりも現状で回復することは、むしろ奇跡にしか思えなかった。心情が許されないほどの厳しい脈打つだけの骸であった。
 わたしは母に、
「お父さんはもう駄目だと思う。残念だけど、時間の問題のようだよ。覚悟をきめて、悲しむのはやめよう。九十年も生きてきたんじゃないか。立派すぎるよ。ハルさんや生みのお母さんの所に行けるんじゃないか。意識もなくて、今のように機械だけで生かされているよりも、仏さんの所に行く方が、幸せだと思うよ。ずうっと仏さんと一緒だったんだからね。今日お医者さんから何をいわれても、あわてまいね。お願いだから。それよりも、お母さんこそ健康に気をつけて、もっともっとて長生きしようや」
 と、母の心情を推し量って、励ましたことであった。
 兄弟の集まったところで、主治医はレントゲン写真を前にして説明した。
 入院当時の左肺は完全に真っ白く、重体であったこと。それが酸素吸入で回復に向かったが、再び状況が思わしくなくなっていること。しかし、あきらめずに治療は続行することなどの解説であった。素人目にも、肺は醜い様相を示していた。
 わたしは父を死の直前に自宅へ連れ帰る思いは、もはや諦めていた。兄も今日の医師の説明で思いが吹っ切れた様子であった。危険をおかすはどの気持ちも期待も、もはや喪失していた。
「最悪の場合、あとどれくらい生きられますか」
 わたしは自分を納得させるために、尋ねた。
 医師はしばし逡巡(しゅんじゅん)した後、
「一週間ですね」
 と声を落とした。
 「しかし、病気は人によっていろいろな経過をたどりますので、最後までわたしたちは諦めません。とにかく最大の努力をいたします」
  わたしはこの言葉を聞いて、不思議にも穏やかな気持ちとなっていた。しかし、このように死期を限定されてみると、その揺り返しからか、父の延命を願う思いが沸々とわき起こってきた。
 (たとえ植物人間とそしられてもいい、医療機器のの奴隷であってもいい、寸刻でも生き永らえてくれ。身体はやせ細って見る影もないが、まだ死相が出ているわけではない。父の強烈な生命力の火よ、もっともっと燃焼してくれ)
 (実家に帰って親に会えることが、わたしにとってどれくらい励みになったことか。まだ生命の火は燃えている。よしや意識がなくとも、老いさらばえた容姿であっても、わたしにとっては、唯一の親なんだ。生き永らえてくれ)
  そして、
 (たとえ永遠の別れの時が来ようとも、あなたは明治三十六年の誕生以来、四つの時代を見聞し、人の世を造り上げた巨木なんだ。そして九十年の歴史を刻んで枯木となり、今、音もなく倒れ朽ちようとしている。四苦八苦の世界を乗り越え、仏の浄士に転生する瞬間をまもなく迎えるであろうが、あなたの積年の功徳は浄士での功績となり、今こそ仏門に生きた喜びと変わっていくに違いない)
 帰りに覗いた父は、相変わらずゴム風船に呼吸を助けられながら、それでも足を少し動かしていた。
 
      

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