開拓者
   


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4.ミミズの煮汁 8.イチジクの頃 12.あとがき


 父は、人生の序曲を奏でた大分県国東郡武蔵町の蓮華寺を出て、大分県別府市へ生涯の居を移した。
 妻と男の子二人を連れての、無一文の転居であった。昭和八年四月三十日、父が二十九歳の時であった。
 別府は新開地であり、今も昔も、土地の人よりもむしろ異郷の人が多数を占めているといっても過言ではない。だから、春秋ある若者は、別府へ未来を賭けて出てきたものであった。 父もその一人であったに違いない。
 父の兄弟弟子はみな、それぞれの寺院に養子や住職に就くなど片付いたが、父だけは師僧の要請によって、師の次女と結婚した。男のロマンであろうか、父の人生はここから宗教家として、厳しい開拓が始まったのである。
  『浄土宗別府方面布教所』(後の極楽寺)を開設した。壇徒信者はゼロであった。 まさしく仏教の布教者とし、そして生きるための方便として始めたのは、托鉢であった。乞食防主である。この体験が、その後の寒行托鉢につながっていくのである。

 托鉢は満身創痍の宗教布教であり、生活安定のための信者づくりであった。国東出身の別府居住者を頼り、紹介助力を得ながらの開拓活動であった。その時の生活体験が、論理より行動を重視する世界観をつくり、頭の低いそして饒舌な人格を構成したのであろう。
 夕方、托鉢から帰り、頭陀袋から一斗カンに今日のいただいた布施をあける。米にまじって、銅貨が幾枚かはいっている。米の中に手をつっこんで、その銅貨を探しあてるのが、子どもの頃の楽しみであった。時には、白貨が見つかったりして、奇声をあげたものである。
 子ども相手の日曜学校や他寺院への説教など多忙な布教活動と、生活維持のための信徒確保などの厳しい毎日の生活の中にも、父はそれなりにわたしたちへの親子の交流を考えていてくれたようである。
 春には別府志高潮畔や十文字高原へワラビや独活とりに、夏には餅ヶ浜への海水浴や、..ここでは帰りに、夏用に急造したよしず張りの海の店で”あめ場”を父に買ってもらって飲むのが唯一の楽しみであったが..、杵築の海に貝掘りに、秋には山芋掘りにと、よく連れて行ってもらったものである。
 また、日曜日には弁当を持って、向かいの山によく薪をとりに、子どもたちを引き連れて行ったものである。家族は食い扶持であると同時に、家計維持の最大の戦力であった。
 子どもたちもそれは心得ていて、生活維持にかかわる行動については、素直に親の注文を聞さ入れた。いわゆる″後ろ姿の教育″がわが家族には徹底していた。親が偉かったのか子どもが賢明であったのか、それとも社会全体がそういう時代であったのだろうか。
 そういう中で、わたしたち四人の男の兄弟は、小学校一年生の時から僧衣をつけ、小僧修行がはじまったのである。文句をいい、反抗しながらも、親の命令に忠実に従った(?)素直な実践者であった。
 戦争末期の頃、長兄(現:長泉寺住職)は京都の仏教大学に遊学中であり、そこへ父は在郷軍人として『青紙』招集を受けて小倉へ『出征』し、結局、当時中学生であった次兄と小学生のわたしとで、約一年間寺務を守ったものである。
 学校から帰って僧衣に着替え、兄弟で檀家参りをしたのである。わたしは生まれて初めて、自分の力だけで幼い女の子の葬式をした。別府市原区でである。
 空襲警報のサイレンの鳴る最中で、わたしは引導をわたし、戒名もつけた。
 こうして家計を維持したのである。おそらく、父は北九州市小倉で防空壕掘りの使役中にも家が心配でたまらなかったろうし、母は家計のやり繰りにどんなに苦労したことか。
 しかし、子どもたちがいわゆる反抗期を迎える頃から、父の地獄が始まったのではなかったろうか。およそ四年おきに生まれた男の子が、四年おきに反抗期を迎え、それがしばらく続くのであるからたまったものではない。理屈では、成長期には必ず通る人生のプロセスであり、真理はむしろ喜ばしい現象ということになろうが、感情はそんな甘いものではない。父にとっては「こん畜生」 であったろう。
 わたしが強く記憶にのこっているのは、父と長兄の議論である。
 兄が中学(旧制)五年生の時であったろう。
 時はまさに大東亜戦争の真っただ中にあった。兄たちは進路を決める年であった。
当寺の男の美学は軍人であり、陸軍士官学校であり、海軍兵学校への合格であった。これに到達しえない者は一般の高等専門学枚に進学し、そこから特別幹部候補生になるという道もあった。そして、それにおぼつかないものや学歴に不足する者は、予科練へとすすむことであった。気の早い者は、小学校を卒業するとただちに幼年学校へと進んだ。
そんな時代であった。
 毎晩のように、父と兄は議論をしていた。議論というより口論である。父はいつも難渋していた。それは、士官学校にすすもうと主張する兄と、長男であるがゆえに、僧侶の道(仏教大学)へ進学させようとする、二人の葛藤である。国難に身を挺するは国民の義務とする若い主張と、家を継がせようとする親の論理である。これが幾度となく続いた。長男であるがゆえに戦死されることを恐れたのであろう。
 これを小学生であったわたしは、二人の口論を聞きながら、長男の位置や辛さというものを漠然と考えてみたりしたが、事実は毎夜のように聞こえる二人の声がただうるさいだけであった。なによりも、兄が怖かった。父よりも学枚の先生よりも上級生よりも、近くに住んでいた高橋の雷親父よりも何よりもかによりも、最も怖い存在であった。だからさわらぬ神にたたりなしで、二人の口喧嘩が始まると、そのとばっちりを恐れて、兄の目にかからぬ場所に小さくなっていた。
 結局、兄は折れた形となったようだが、それでも諦めずに、コペルニクス的回転にもならなかったが、今度は危険の少ない清水高等商船学校(現東京商船大学)の受験を主張し始めた。船乗りであれば、軍人ではないので、戦死の心配はあるまいというのが、転機への論拠であったようだ。もちろん父は反対したが、兄はせっせと受験してしまった。学科試験も無事パスしたが、身体検査ではねられてしまった。父は複雑な気持ちであったにちがいない。
 兄はその鬱憤をわたしにもってきた。それだけの理由があったからである。一番の成長盛りの頃、病気作り名人のわたしが発祥源となって、兄二人が伝染病に罹り、健全なる身体の成長をストップさせてしまったのである。それが原因で、兄の体格が当時の商船学校の規格に合わなかったことらしかった。わたしはただベソをかく以外なかった。
 しかし、『人生万事塞翁が馬』のたとえ、合格した仲間のほとんどは、戦時中輸送船で太平洋の藻屑と消えてしまったのである。余談だが、おそらく、当時の兄の学力からいえば、第三高等学投(現京都大学)合格も夢ではなかったのではあるまいか。
 次兄は温厚篤実で、父へ反抗し困惑させることはなかった。おかげで、仏教大学を出て小学校の教師を三年するうちに、父のすすめに素直に従って、福岡の片田舎の寺院へ養子にいき、今では父以上に信心深い僧侶となっている。
 しかし、戦時中は彼が一番苦労した。それも彼の温厚な性質がだまってそれを受け入れたからだろう。毎日のように、鉄輪(かんなわ)(極楽寺との直線距離約5km)まで徒歩で往復し、住職が出征して不在となった永福寺の檀家参りを終戦までし通したのである。おそらく父にとってこんないい子はいなかったのではあるまいか。
 それにしては、三男は粗暴であった。父を困らせたことはいくたびだか知れない。
 わたしが高校二年生の時であったか、明日からお盆が始まるという日であった。
 お盆の檀家参りは死にもの狂いの重労働である。お盆は祖先縁者の精霊をそれぞれの家庭でまつり、一家眷属集まってその壮健を喜び合う習俗があろうが、それを支える僧侶にとっては、地獄の釜が開く苦闘の三日問である。白衣は汗にまみれ、声は枯れ、足は劇痛に苦しまなければならない。その上、四日目は施餓鬼会がまっている。だから、お盆の前日は、毎年、わたしは明日からの労働に対する不快感と苦痛への不安感で、心が重く気が立っていたものである。

 その昔、釈迦の弟子で神通力第一といわれた目連尊者が、亡くなった両親を慰めようと神通力をつかって、あの世を透視したところ、生前自分を一番愛しつづけた母親が餓鬼道に堕ち苦しんでいるのを発見し、釈迦の助言と指導に従ってそこから救い出したという故事にちなんで読む、特殊な経文である。天上界に母親が救い出されたのを知って、祭壇のぐるりを喜びのあまり、踊り回ったというのが、盆踊りの発祥である。

 その日父は、座敷で白衣や黒衣などをたたみながら、明日の準備をしていた、そこにわたしが顔を出したのである。そして、そこに出ていたお盆用の経本をなんの気なしにめくっているうちに、不審なことを発見した。もう何年も読み続け、見続けてきた活字ではあったが、そり時、経文の中である部分だけカタカナで書かれていることに気づいたのてある。
 わたしは、これもなんの気なしに尋ねたのである。
 「ノーマクサラバ タタヤター バローキティオンのところは、漢字でなくて、なぜカタカナで書いているの」と。
 父は、「それは、変食陀羅尼というお経だからだ」 という。わたしはなぜカタカナで書かれているのか知りたかったのだった。「じゃあ、どういう意味なの?」
「それはな、死んで蛾鬼道に堕ちた罪深い人が、食べ物を食べようとすると炭になってしまい、飲み物を飲もうとすると、炎となって消えてしまう。そんな食べることで苦しんでいる人に、食べ物がそのまま食べられるようにするお経なんだ。まあ、どうぞお供え物をお食べ下さいというお経と思ってもいいが」 父は、衣を折りたたんでいる手を休めずに答えた。「じゃあ、ノーマクサラバとはどういう意味なの?」 と尋ねると、渋い顔をしながら、
「そんなことは知らんでもいい」 「だって知りたいんだ」 と、食いさがった。
「お経は読んでいれば功徳になる」
 父はまた始まったというような顔をして、うさんくさそうにわたしを一瞥した。
「普通お経は漢文で書かれているじゃないの。だのに、なぜお盆に読むお経だけはカタカナで書いているんがあるんか、それを知りたいんだ」
「漢文であれば、およその意味は理解できる。しかし、カタカナじゃあさっぱりわからんじゃないか」
 質問を畳み込んでいくと、父は口をつぐんでしまった。
「ノウボアラタンノ タラヤヤ ノーマクアリヤなんかもそうやろ」
「ノーモーソロバヤー タタギヤタヤー タニハタもそうだし、ナムサマンダー ボタナンマンだってカタカナで書いてある」
 父が返答をしなくなったので、わたしは段々感情がたかぶりだした。
「檀家の人から意味を聞かれたら困るじゃないか」
 時々聞く人がいる。高絞生の時に、『阿耨多羅三貘三菩提』とはどういう意味かと問われ、大変困ったことがあった。わたしは寝物語でいつの間にかお経を覚えてしまったので、残念なことには、多分に、いわゆる“お経読みのお経知らず”なのである。いまだにそれが劣等感となって、わたしをさいなんでいる。
 わたしは返事をもらえないとわかると、今度は父を罵倒し始めた。
「意味がわからんから、言えんのやろ」
「じゃあ、いままで読んできたお経は、お経知らずのままやったんやな」
「人にお説教をしているくせに、本当は何もわかっちゃいなかったんだ」
 その時、わたしは、父の感情を読み取るゆとりも思いやりも持ち合わせていなかった。 あげくのはてに、 「父ちゃんはエセ坊主だ。詐欺漢だ。教えてくれなれりゃ、明日からのお盆参りにゃ行かんからな」
 と、立上がりながら、威勢よくタンカをきったつもりで、衣をたたんでいる父の顔をふとみると、衣の上には父の涙が落ちていた。わたしは慙愧にたえない気持ちとなったが、出た言葉はもう取り消せなかった。
 その時、わたしの大声を聞き付けた兄がやってきた。
「どうしたんだ、また喧嘩か」
 兄は父の異常さに気づかないまま わたしの方を見て尋ねた。  わたしが事情を説明すると、
「ありやのう、呪文やから意味なんかどうでもいいんや、呪文ちゅうもんはそんなもんやろうが内容が分からん方が有り難い。神秘性がある。第一これは漢字にも置き変えられんし、だから、インドから中国に渡った時も、むしろ音読だけで漢字にあえて翻訳しなかったんだろうな。もしどうしても聞きたければ、目蓮尊者に聞いてくればいい」 兄はなにもなかったような顔をして自室にもどって行った。 二千数百年隔てた時代まで尋ねに行ほどの重要なことでもない。と思うと同時に、父に申し訳ないことをしたという自責の念にかられたことであった。
 ともかく、父は大変な子どもたちとの葛藤の人生であったはずである。
 わたしも、子を持って初めて、父の苦悩が理解できるようになった。
 それぞれの個性をもった子どもたちも、それぞれ家庭を持ち、お陰で事なく人生を送らせていただいている。 考えてみると、おもしろいことには、子どもたちの結婚はすべて「お気に召すまま」であった。だから、養子にいった次兄を除き、兄弟はみなそれぞれ自分の配偶者は自分で探してきた。そのことについて、両親は何もいわなかった。呑気な親であったのやら、はたまたリベラリストであったのやら。 父の開拓者精神は子どもたちに引き継がれていると思う。しかし、実践力はどうしても凌駕できていない。その点、明治男の面目躍如たるものがある。
 父は、いわば芹川一族の初代開祖である。父より芹川の歴史は始まるとしょう。別府に出て来て『極楽寺』という一寺を創設はしたが、結局、伽藍の建立はならなかった。おそらく、父も子もそのことを口にこそ出さないが、断腸の思いをしているに違いない。
 しかし、それはそれでよしとしよう。清貪の中から、四人の男と一人の女の子をみな大学にやり、りっぱな子孫を残したではないか。この世にすばらしい開拓者の歴史を残したではないか。 わたしが、父の人生観から学んだことの一つ。
 「うちは、仏様のおかげで食べさせていただいている。お布施のおかげだ。お布施をいくらいただこうと気にしてはいけない。誠心誠意つくしていれば、いつかは必ず人はそれを認めてくれるものだ。けっして先に要求をしてはいけない。ただ求めずして、誠心誠意つくすこと」
『誠心誠意』、これがわたしの生きる上での座右の銘となっている。


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