イチジクの頃
   


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   子どもの頃、わが家の庭には、家を囲むようにして、十数本のイチジクの木々が繁っていて、多くの果実をわたしたちに提供していた。
 そいつがいつ植えられたのか知らないし、だれが植えたのかもわからない。だいいち、そんなことに興味をもったこともない。そんな詮索よりも、それらの木々がわたしたち兄弟の忘れえない生命のキーワードであったことを、わたしは何かにつけ思い出すのである。
 同時に網膜の向う側には父の姿がイチジクの映像とともに見え隠れしている。イチジクは不思議にも父の人生と対座して、その年齢と比例した繁栄期と衰退期のグラフを描いてきた。ちなみに、今は、それらは一本も残っていない。
しかし、今から二十数年前、わたしたち家族が、現在地の大分の郊外に転居したとき、このイチジクの小苗を生命のノスタルジーとして移植した。それが年へて巨木となり、多くの果実をわたしの家族に提供してくれた。二本の木がどれほどの恵みを与えてくれたことか。
 その美味は、スーパー店で求められるイチジクの比ではない。その甘味な香りにひかれて、どれほどのショウジョウバエが集まってきたことか。どれだけ多くのジャムを妻が作ったことか。どれだけ近隣におすそわけしたことか。
 それも虫がつき、三年前枯れてしまった。家族をなくしたような悲しい思いであったが、枯れる前、小枝を挿し木していたのが、やっと歴史を継続し、細々ながら血脈はわたしの子どもの代へつながっていきそうである。今年、やっと実をつけてくれた。
 イチジクの木には春が遅い。桜の花も散り、初夏の息吹きが感じはじめる頃になってやっと、若葉の芽がふくらみはじめる。しかし、そうなると青葉は急に成長する。幼子の手のような可愛い形の青さが、枝の先や節々から衣をつける。わたしは、この季節がくると、いつも子どもの頃の父と兄たちを思うのである。
 梅や桜はわたしには何の感興もおこさせてくれなかった。ただ美しいだけであり、いい匂いがするというだけの感性しかなかった。生活に花見の優雅な行事に興じるゆとりもなければ、人生の活力に結び付くものでもなかった。腹が太らないからである。それがどのように食料となり、おやつとなり、満腹感を与えてくれるかが、わたしの価値観であった。そこには在原業平もいなければ、紀友則も存在しなかった。戦争中なのであり、貧乏寺の子だくさんなのであった。
 若芽が開きだす頃に、小さな果実がイボのようにふくらむ。いわゆる“花”というやつである。
無花果のイチジクも“花”がある。形は花ではなく、イチジクそのものである。イチジクの先行果実で六月の終りから七月の初めに熟するが、本物ほどのうまさはない。皮をむくと紫がかった色合いがなんとも不気味で毒々しい感じだが、それでも兄弟はそれを競って食べたものだ。なぜ本物が熟し始めるまえに、このような実ができるのか、これも詮索したこともない。ただ食べられればそれで満足なのであった。
一番はやい果実の収穫は、毎年、お盆のすんだ翌日、八月十六日の施餓鬼会の日であつた。
 その日まで待って、熟した実をすべてとり、仏壇に供えて法要の後、参詣された善男善女にそれを布施するのである。家族の口には先ず入らない。このめずらしく、蜜のような甘さをもった果実を、口々にほめ合いながら賞味する。この様子を父は毎年、得意気に見つめていたものである。
 今年は、わたしの妻の知り合いで、ハウスイチジクを商っている方から、相当量のイチジクをいただいた。それを持ってお施餓鬼の土産とした。両親はもちろん、参詣された方々から大変よろこばれたが、父はおそらく数十年来重ねてきたイチジクの布施を思い起こしていたに違いない。 そのイチジクも、わたしの小さい頃は、父が木に上ってもぎ取り、皮をむいてわたしに食べさせてくれたものであった。五六歳になると、木の上から父や兄が、よく熟れた実を投げてよこすようになった。木の下に呼び寄せられると、わたしは上を見つめ、小さな両手で蓮のうてなを作り、目の高さにさしだす。すると、その袋の中に木の上からイチジクが落ちてくる。目標が外れて、指をかすめ地面にグシヤリとジャムを作ることがある。そういう時は、きまって父は、「こんどは、ちゃんと、つかむんだよ」と、自分の外したことは棚に上げて、励ましたものだ。
 小学生になると、もはや人を頼みとせずに、自ら木に上り、猿をきめこんで、たらふく食べるようになった。
 危険な空間の中で猿の身軽さをきめこんでいるわたしを見ても、父も母もなんの注意も与えなかった。ただ黙って、猿の動作を見つめているだけである。あるいは、余計な注意はかえって危険を誘発するとでも思っていたのかも知れない。
 男の子四人の兄弟が競って木に上る。そして、うまそうな果実を先陣争いでとって食べる。不思議に取り合いのケンカをした記憶はない。それほど多くの実があったのかも知れない。
 よく、木に上っているわたしに、下から父が熟した実のある位置を教えてくれる。わたしはその指示に従って技をたどり、実をちぎる。そんな時は、義理と人情で、父にそれを投げてよこしたものだ。
 イチジクは独特の白い樹液が出る。こいつがくせもので、イボにつけるとイボが落ちるという人がいるが、真偽のほどはさだかでない。それよりも、それが皮膚につくとたまらなくかゆくなる。イチジクを食べているうちに、皮をむくために爪の下の皮膚が赤くただれて、たまらなく痛くなる。口の両端が切れて、口のあかぎれとなり口が痛みのために、開かなくなる。それでもイチジクを食っていた。
 イチジクは雨に弱い。雨あがりの日の熟したイチジクは、口が大きく開き、中身が白く変色して捨てる以外にない。放っておくと、じゅくじゅくに腐って、甘酸っばい匂いをふりまく。それにドンブリバチや黄金虫、蝶などがたかる。すると他の果実まで虫に侵される結果となる。だからそれらを早く始末しなければならない。
 そこで、雨上がりの日は、母の指図にしたがって、子どもたちは木に上り、いたみはじめた実はすべてとってしまう。これは捨てずに籠に入れて母に渡すと、母はそのひとつひとつの実の皮をむき、ジャムを作るのである。
 大ナベに一杯になった果実を弱火の上にかけ、なん日もかけてジャムに仕上げていく。これを母の作った蒸しパンにつけて食べるのが、子どもの頃の楽しみでもあった。
 イチジクの木は幹の中は空洞になっている。その中に虫が住みつく。白くて十センチ程度の良さで、団子をいくつかくっつけ合わせたような、なんとも不気味な姿の虫である。その虫が幹や枝を食い破って中にはいり、中から木のしんをたべる。そしておがくずに似た食べかすを、その穴から外へ出す。赤茶けて濡れたおがくずがくっついていたり、地面に落ちていたりする箇所には、必ず木喰い虫が住みついているのである。
 その虫の黒焼きが肺病によく利くとかで、時々その虫をもらいにくる人がいる。父は、そのたびに快く引き受け、喰いかすのおがくずを目当てに枝を落とす。そしてそれを半分に裂いてこの白い化け物虫をあげていた。
 この虫はなにかの幼虫だと思っていたが、わが家の二本の木を喰い枯らしてはじめてそれがわかったのである。まさにわたしにとっては、五十年来の発見であり、恨み骨髄の天敵であった。それはカミキリ虫であった。あのマダラ模様の触覚を持った、不気味な音を立てるあいつである。しかし、気づいた時は、もはやあとの祭りであった。
     
イチヂクの下で
長男と長女

 家の庭をへだてて、向かいに共同温泉がある。庭にイチジクの木があるので、木の上から温泉の屋根に簡単に上ることができた。屋根は波型トタンで葺かれていた。
 国民学校の五年生の時であったろうか。そのトタン屋根の上に布団を干していた。わたしは遊び心で、木を伝ってその布団の上に上がり、青空をふり仰いでいるうちに、いつの間にか、眠ってしまった。
 ある親戚の老人から
 「子どもは、人より高い所にのぼれ、そんなやつでなけりゃ出世しないぞ」
 といわれたことがあったが、その時、人より高い所に寝ているんだという優越感を感じに浸っているうちに、桃源郷にいってしまったような記憶がある。
 外気はまだ残暑の厳しい初秋のことであり、その暑さで身体中汗まみれになって、われにかえった時には、完全に日射病にかっていた。おそらく、兄弟の中でわたしほど病気を作り、両親に迷惑をかけたヤツはいなかったはずである。
 イチジクはわたしにとって、まさしく心の故郷であり、生命と成長の源泉であった。
      


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