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- その年の冬は格別に寒かった。
「子供は風の子」という伝承は、子どもを放置し、飼育から逃避する大人のいいわけではないか、と思えるほどの寒い年であった。
昭和十八年、わたしは国民小学校3年生の年であった。
時あたかも大東亜戦争最中で、ようやく日本も進攻の勢いが鈍り、守勢にたとうとする暗雲の覆いはじめた時期ででもあった。男の子はやがて天皇や国家のため軍神となれと教育され、無言の帰還の勇士を迎えては、子ども心に感動し、乃木大将をみな夢みていた。妨主になろうなど、とてつもなく嫌だったし、国賊に近い思いであった。
その日、学校から帰ると、「枕経に行ってくれないか」と、母はわたしの顔色をうかがいながら、申し訳けなさそうにいった。
新仏ができたということである。
亡くなった人に最初にあげるお経が『枕経』である。
小学校一年生からお経漬けで、黒衣のよく似合う小僧であったわたしは、ケンカがめっぽう強い悪ガキで、
「こぞう!こぞう!」
と、友達からからかわれると、わたしは衣の裾をからげあげて、
「なにを!」とそいつを追っかけて、げんこつの一つもやったものだ。 しかし、〈小僧)はやはり嫌でたまらなかった。
『大根小さしといえども小根といわず。出家にむかって小僧とはなにごとだ』
といったという一体禅師ほどの度量は子どもにはなかった。
その僧形姿で、しかも不気味な死人を前にしてお経をあげるのは、子どもの神経には相当こたえたものである。小僧をやらなければならない運命を、寺の子に生まれた不運を、いくど悔んだことか。
《枕経》は、なにか、人の世とは異なった次元の世界にずかずかと入り込む所作に思え、そのような力と資格が自分にあるのかという不安もあった。
その上、亡くなった人を悼む家族の方々のすすり泣く悲しみの声が、わたしの心をさいなみ、あたかも自分の罪によるもののように思え、悲しみがオーバーラップして、こちらまで悲しい思いにさせられるのが常であった。
これが小学三年生の思いなのであった。
「どこ」
と、それでも母に聞かないわけにはいかなかった。
<いやだ>とはいえないほど、親の後ろ姿の教育と貧困が身に染みていたのである。家族はみな家計を支える戦力の時代であった。
なぜかその時は、すぐ上の兄は不在で、父は四十度近い熱をだして、もう一過間ほど伏せっていた。
「乙原(おとばる)よ」
と母はやさしくいった。
日頃、生活にやつれ、感性も情緒も忘れるほどの厳しい母も、無理な仕事を頑是ない子に押し付ける苦しみを感じていたのであろか、ことばは不恩義なほどやさしかった。
『乙原』は、現在のラクテンチ周辺の地名である。わたしはどうしても行かなければならないあきらめの運命を呪いながら、思いをその山上の集落にはせてみた。
<乙原にうちの檀家があったかな>、<だれが死んだんやろうか>、<こん寒い日に、あげな山ん上まで行かんとならんのやろうか>、<横ん道を行くよりやっぱし石段を上ったほうが早かろうな>などと、頭の中は回転する。子どもの頃のわたしには不恩義に洞察力めいたものがあった。
ラクテンチには、急傾斜をケーブルカーが走っていた。観光地である別府は、ラクテンチと鶴見園とが遊園地を分けあっていたが、共に戦時中で休園していた。それどころでなく、ラクテンチはケーブルカーの車両のみならず、鉄路までが大砲や砲丸に化けてしまっていた。わが家の唯一の小さな釣り鐘も供出を命じられて、法要も寂しいものとなっていた。
衣を着て小僧に変身したわたしは、ぶつぶつ不平をいいながら、流川通りを山手に向かった。
正面には急傾斜のケーブルカーの跡が山の中腹にのびている。いつも見なれた光景ではあるが、どこからか、また「こぞう!」の声が聞こえてきそうな、いやな思いが胸をよぎる。
乙原にのぼるためには、鉄道も車両もない今は、鉄路跡の横についているおよそ三百八十段の石段を上がるか、つづらおりとなっている横道を歩くかしかない。いずれも骨の折れる行進ではある。
わたしは当然石段をのぼって行った。相当な労働である。
ラクテンチの構内は、もはや遊園地ではなかった。動物園内の生き物もいなければ遊具もない。あわれな戦争協力者であった。 山頂につくと、母のくれたメモをたよりに、<浜崎家>を探して行く。僧形であれば小僧でもどことなく尊敬心をあおるのか、人はみな親切に訪う家を教えてくれる。
乙原地区には<浜崎>姓の旧家が多い。それだけ家作も大きい。さぐりあてた家の二階に、目的の《中野》さんは間借りしていた。
案内を乞うて部屋に入ると、線香の香が鼻をつき、そこにはやや小さな布団に横たわった死者がいた。顔には白い布がかけられ、枕元には座机の上で香の煙りが一筋流れていた。
「寒い中をご苦労さんね」
僧衣をつけた子どもの姿に、やや気落ちした表情がはしったが、さあらぬていでやさしいことばがかえってきた。
涙声であいさつをしてくれた婦人を見ると、以前、家の近くに住んでいた「オバサン」である。
一瞬ドキリとした。
その家には、わたしより三歳とし上の男の子がいた。彼は悪ガキのわたしにしばしばブレーキをかける、わたしにとってはけむたい存在であった。瞬間的に考えたのは<あいつがおれのお経を聞いて、後でからかうんじゃないかな>であった。嫌な思いであった。
約二十分の読経は終わった。その読経が死者にどのような功徳と、家族に安堵感を与えたかはしらない。小学三年生の読んだお経である。ただ、緊張感で他を考えるゆとりはない。ただお経を間違えない心くばりと、白布の下に隠された顔への怖い物見たさだけが、せいいっぱいの二十分間であった。
ふり向くと、オバサンは
「あんたは元気でいいね」
と、思ったより明るい顔で語りかけてきた。
正座して対面するのも気恥ずかしい子どもである。早く葬儀の時間を終わってこの家を出ることしか関心がなかった。しかし、オバサンはそんなこちらの気持ちもものかは、親しげに語りかけてくる。
「元気なのが一番いいね」
と、またいってから、
「この子はたった一晩で、死んでしまったんよ…」
ことばがとぎれて、急にオバサンの目に涙があふれた。じつと感情を押さえるようにしてことばを切っから、
「急性肺炎でね」
と、小声で独り言のようにいった。そして、顔にハンカチをあててから、声を押し殺して泣きだした。
わたしの全身に電気が走った。水をかけられたような戦慄で身体が硬直した。驚きと恐怖と憐憫が、わたしの目を白い布切れに向させた。
<あの嫌だった上級生だったんか。本当なんか>、それは考えられない空想の世界であったし、虚偽の現実であった。
その時、わたしは前年死んだ、わたしの妹の死を瞬間的に連想していた。
死とは、目前から完璧にその存在が消え去ることである。仕事として人の死と幾度か対面し経験した死者への抵抗力は、肉親の死には何の投にも立たなかった。ただうろたえるばかりで、特
に母の悲痛な涙の声は、子ども心に強烈な思い出を刻んだものであった。昨日までいた家族が、今日は永遠に存在を失うのである。死者を愛した者にとって、これ以上の残酷さはない。
「この子は、あんたともよく遊んでいたのにねえ」
オバサンはそれが死んだわが子への愛情と思ったのであろうか、白い布を取って「顔を見てやって」と、わたしに哀願するような顔をみせた。
それは赤味の失せた粘土像であった。微動だにしない青白い石像であった。悲しみよりも驚きであり、不思議にも、もういじめられない安堵感でもあった。
再びケーブル横の石段を注意深く下りながら、大役をはたした充足感にしたっていた。しかし、心のどこかに吹き抜けていく空洞があいていた。それが何であるかは、帰宅して大きな困難に直面して、はじめてわかったことであった。
それは、父が熱病のために、病床を出ることができず、葬儀ができるかという不安であった。
父の熱はいっこうに下がる気配はなかった。葬儀は明日の午後一時であった。
父は下がらぬ熱に困惑しながらも、葬儀は自分の手でと決意をしたらしかった。きびしい表情で、
「母さん、こうなったら最後の手段だ。あれをやろう」
「きたないのにね、作ったら飲めるの?」
「そんなこといってる場合じゃあるまい」
「でもねえ」
「とにかく、試してみようや」
「わたしは嫌よ、気持ち悪い」
「でも、憲夫がしてくれるだろう」
両親の禅問答の中に自分の名がでてきたので、自分の存在感を大きく意識して。
「何をすればいいの、なんでもするよ」
「ミミズよ」
「魚でも釣りに行くの」
「いや、薬を作るの」
「ミミズで」
「そう、熱さましの薬をね。やってくれるね」
母は、またやさしい哀願の目をした。母にしてはめずらしい表情であった。
わたしは母の教えに従って、急づくりの漢方医に早変わりする仕儀とはなった。いやな役割ではあったが、これも明日の葬儀のための裏方と思えば、なんのことはない、子どものいたずらの延長程度の仕事でしかなかった。
わたしは早速、庭を掘った。四五十匹のミミズなんて、子どもの遊びの中での狩猟にすぎない。しかし、どくろをまいたようにのたうち回る姿は、決して気持ちのいいものではない。
掴まえたやつを、洗って土を落とし、首を落とす。とはいうもののいずれが頭か尻尾かわかったものではない。どちらでもよい、少しちょん切ってから、包丁の背で中身の臓物をしごき出すのである。茶色がかった不気味な色と奇妙な臭気で感覚が狂いながら、赤みを帯びた皮だけを残す。それをまた洗いし、薬の下地が出来上がったことになる。
ゆきひらに水を充満し、その中に調理したミミズを入れ、弱火で煮沸する。つまり炭火で、ミミズのスープを煮詰めるのである。
数時間の後、汁は湯のみ一杯の飴色め混濁した量となる。それが熱冷ましの秘薬となるというわけである。わたしはそれを完璧にやりあげた。不気味で汚い仕事ではあったが、小学生のわたしにはそれを仕上げた誇りが残ったのである。しかも、それは、二回行われたのであった。およそ、百匹のミミズが犠牲となった。
父はそれを嫌な顔もせず、素直に飲んだ。そして翌朝を迎えた。
わたしは学枚を早引きした。父の回復を祈るような思いで帰宅してみると、父はすでに僧衣をつけてわたしの帰るのを待っていた。
「行けるの?」
というわたしの問いに対し
「ありがとう。熱は下がったよ」 と、父はにっこりと笑った。
秘薬の霊験が見事に現れたということである。ドンク釣りの餌でしかないあのミミズが、父の体力を復元する秘力を持ち、しかも、友の葬儀をすませてくれるほどの恩義を与えてくれたことは、わたしにとっては、計り知れない感動であった。
しかし、約一週間の寝床での呻吟は、奇跡的に熱が下がっても、体力がおぼつかなく、しかも寒気の中を三百八十段余の登頂は、至難の技と思われた。長男は京都に遊学中であるからやむをえないとしても、どうしてその時、次兄が不在であったのか、今考えても不恩義でならない。もし次兄がいたら、わたしはこれほど父への困惑はしなかったに違いない。
ケーブルの麓について上を見上げると、吹雪が吹き降してくる。手もかじかむほどの寒さが、雪を連れておりてくるのである。
上を見上げていた父も、ちょっとたじろいた様子であった。
「これでは無理だろうな、横の道をあがろうか」と、ひとりごとをいった。
後ろに立っていたわたしは、肩が落ち小さく見える父め後姿を不安げに見つめていた。
四十台の半ばの歳であったろうが、何か老いてみえた。しかし、当時のわたしにとっては、父は絶対的存在であり、世界一の頼りうる存在であった。全智の人間であり、聖職者であり、檀家からは全幅の信頼と尊敬を受けていた人物とみていた。やや饒舌でお人好なところはあったらしいが、子ども心には偉大な存在であった。
そういった父への思慕が、ミミズ医者の役割をはたし、今また、困難な坂道への挑戦の協力者になろうとしていた。父は病み上がりにかかわらず、亡きひとの葬送の責任をはたすために、今、体力の限界に挑戦しようとしている、とわたしにはそのように見えたのである。そこに使命感を見たのである。
「後ろから押すから、がんばって上ろうよ」
「そうしてくれるか、足元に気をつけるんだぞ」
この会話で二人の心は通じ、石段を上ることとなった。葬儀に使用する僧衣を包んだ唐草模様の風呂敷包みを抱くようにして持ち、吹き込む雪から身体を守るようにしている父の後ろを、わたしは必死になって押しあげた。よく父は、わたしたちを連れて、鉄路のなくなったケーブルのレール横の石段を上り降りして、山芋堀りに行ったり、、乙原を山越えして志高潮畔にワラビとりに行ったりしたものであったが、今日の父は、僧衣をまとっての困難な登山者であった。
幾度か息切れして、進行が止った。上を向いてまだある距離を計るよりも、振り返って上った。位置を確認して安心する所作の方が多かった。白い蒸気を立て、父の荒い息が頬にかかってきたが、父は泣き言はいわなかった。わたしも必死で苦力を耐えた。
頂点の終着駅に到達した時、二人とも顔も手も真っ赤にそまっていた。吐く息が白く生きているリズムを伝えていた。
「ありがとう」
と、父はわたしに笑顔でいった。わたしにはその一言が萬金の重みで快く心に響いた。そして、日頃考えたこともなかったミミズへの感謝の気持ちが、一瞬ひらめいたのであった。
長泉寺裏山にて
小板道のぼる両側つわ花の
黄色にそめて秋風の吹く
(輪譽正教・昭和四十六年十月)
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